夏休み!ラプトルたちと恐竜博物館に!
福井の恐竜博物館に行ってきました!
小3から中2まで総勢13人を引き連れて。
行きの車内からはじける、弾ける!
特に小3ラプトルたちは、大興奮。

今回の目玉は若き恐竜研究者、堀口先生から、直接解説してもらうことでした。
うう゛ぁああ・・、と、掛けだして、初対面の堀口先生のまわりにいきなり群がる、ラプトルたち。
しかし、
3分後には、先生の横にぴったり整列。


「福井(ジュラシックワールド)のオーウェン」
を発見(発掘)した瞬間でした。

専門の恐竜たちに比べれば、ホモサピエンス程度を手なずけるのはたやすいことなのでしょう。
そこからたっぷり、半日。
化石掘り、





博物館巡り、










土産買い(ラプトルたちは自分で財布からお金を支払ったのは、人生初体験。お母さんたち心配していました。「はじめてのお遣い(?)」)
恐竜レストラン
・・・と盛りだくさん。

さすがのラプトルたちも、途中で充電が切れて、しばし瞑想をはじめていました。

(しかしほどなくして再起動。立ち上がったかと思うと、だっと駆け出し、すぐに堀口オーウェン探索を始めていましたが。)
情熱的な専門家の話は、われわれ大人も面白かった。
しかも現在の研究対象は、あのアロサウルスですから。
ほんとうにそのことにのめりこんでいる人からそのことを直接きくというのは実に楽しいものです。
まさに、その経験を子どもたちにさせてあげたいということこそ、今回のイベントを企画した、あゆ美先生(起業支援会社アンサソス代表でもある)の目的でした。
人と人をつなげることが天職であるという彼女の提案で実現した福井行き。帰路の車内では、ああ、着いて欲しくない。このまま時がとまってほしい・・。という小学生も。
堀口先生、あゆ美先生、運転役に徹してくれた経済学徒月岡さん、ありがとうございました!
************************
堀口直人先生
(所属:福井県立大古生物学コース)
幼稚園児のころから恐竜に魅せられいまに至る。中学で
理科を教えながらも恐竜への思いは捨てきれず、研究者
の道へ。
現在、アロサウルスを中心テーマとして研究中。
その姿は新聞でも紹介されました。
恐竜研究者目指し
福井県立大大学院で古生物学コース始動
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スライム
夏休みのはじまり。部活帰宅後は目の前でとろける子どもたち。
成績を示しながら夏にだらけないように脅しをかける学校面談がそこに重なる。
親に対しほとんど口をひらかない子どもの学校生活の実態がここで成績というフィルターを通して明らかになる。そして目の前のスマホと溶融したスライム姿が不安と苛立ちを惹起する。
子どもの日常の「成績」がそこまで親の不安を煽ってしまうということが、若いころにはどうしても理解できなかった。
しかし、その後経験を経て、成績は起動装置あるいは口実みたいなもので、子どもとの関係不安が本体なのだとわかった。
そして、職業柄知っているのは、そこにほんとうに巧みにつけこむ教育産業の裏側の実態。
加えてこのところ、学校(高校でさえ)は教育産業ではないのに、親の要求に応じて塾化(実際に塾システムもどきを導入しているところも。)してしまっているので、冒頭のようなことになる。
私は昔から意識して見ているのでおおよそ外れてはいないと思うが、強制されないのに、予習復習まめに欠かさず、定期試験で細かく結果も出し続けるという、親や教師を恒常的に満足させるようなタイプの高校生(この連中は高3夏の東大京大模試などでA判定を出したり名前を載せたりすることになる。)は、選抜されたクラスでも10人に一人いればいい方。平均すると20人弱にひとり程度か。
東大京大受かっていった青年たちでもそんな完璧タイプは多くない。
だいたい、多感で能力もどんどん増す高校生時期に、定期試験対策だけに日常を特化できるというのは、むしろなにかの「欠如」を示しているのではないかとさえ思う。
青年たちは通常は親や教師を安心させるために生きていないので、それを画策して三者面談をしても、本人への効果発揮は難しい。効くのは特定の親にだけ。
となると、このような戒めや脅し目的の面談にどんな意味があるのか。
(どうせ聞かないのに小言を言い続けてしまう構造と同じ?)
この種の面談をもしも続けるのであればせめて「解放」が必要ではないか。
昔から提案しているのは、同じ時期の三者全員の成績表をまずは提示し、それを前提に話しをしてみるということ。
親自身も先生と呼ばれるような人たちも、ふりかえってみればたいていは20人にひとり側ではなかったはず。おのずと一方的な要求の場にはならなくなるのでは?お互い苦笑しながらになるんじゃないかな。
などなどいろいろ思いながらも、一方で目の前のスライム青年たちののんびりさ(大人のペースと異なるだけで、感じていないわけでも、考えていないわけでもない。)に今年も救われるなあ。
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トナカイさんとマンガを描こう
いつもは読む、ですが、今回は描く、に挑戦。
講師は、トナカイフサコ先生です。
「だれでもマンガ家講座」



さてどうやれば漫画を描けるのか。
どんなふうに発想して、どんな段取りで?
最初はみんなわかりません。
というわけで、
漫画描き入門講座です。
「 マンガを描くうえで大切なことは、
上手に絵を描くこと
ではありません 」
からスタート。
「お題をもとに、想像力をふくらませて」マンガのワンシーンをつくることを目標にしました。




すきなマンガをあげる準備運動から、たとえばどんな発想で設定すると物語がわきやすいか、といったことを手がかりに、次々にワークを重ねていきます。

さてお題の絵が与えられます。


そして、
「このシーンの前後を自分で、自由に描いてみよう」

そこまで、マンガということで、ずっと興奮して、しゃべり続けていた子も、密かな情熱派の子も、みなすごい集中力で必死に取り組んでいました。


最後はみんな描き上げることができました。
早速、作品集に。
早く仕上がった子が、表紙もさらさらと。
感想編や思い出語りでは、先生かたを含めてマンガ少年少女たちの教科書や問題集の隅はいろんな「目」だらけだということで盛り上がっていました。
そういえば無数の微小ガンダムであふれたテキストの少年を私も見たことがあります。
授業をきかずに(きいてるふりだけしながら)、イラストを描き続けているような子はしょっちゅう。
教室から遊離して、魔法(?)空間をさまよっている子も珍しくありません。

たぶん多くの少年少女の日常を救っていると私は思っています。
マンガの力、大したものです。
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そんなマンガに魅せられて、この道を選んだ、トナカイフサコ先生。
北欧白夜旅行記を皮切りに今後、世界旅行を作品化していく予定だそうです。
なんとも繊細でかつ軽妙な作風。
しかもしっかり旅行現地情報にもなっている。
トナカイフサコ白夜旅行記
画風も親しみやすく、私自身もトナカイLINEスタンプというものを初めて買いました。

今後も、作品楽しみにしています。
講座も、またぜひお願いします!
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なんで勉強なんかせなあかんの!?
「なんで計算なんかせなあかんのー!?」
これは昨年のヒトコマ。
なんで計算なんかせなあかんの?
これまで子どもたちからの同様の悲鳴をどれだけたくさんきいてきたことか。
「なんで勉強なんかせなあかんの!?」
「なんで学校なんかいかなあかんの!?」
「なんで受験なんかせなあかんの!?」
いずれも至極まっとうな疑問で、正面から受けるということは私自身の長年の「宿題」でもありました。(なんで宿題なんて!?も定番の悲鳴。)
いつかこの子たちに正面から、応えてあげたいと考えていたところに、いい人材を得て今回それを考えてみる企画を行いました。
21世紀、この国の青少年たちの日常は「勉強」「学校」「宿題」「テスト」「受験」・・
この種のもので占められてしまっています。
親や先生をはじめとする大人たちは、勉強はしとかなあかんで、大事やで、とみな口々に言います。
しておかないとやがて大変なことになるよ、という「脅し」言葉にもしばしば接することでしょう。しかもその言葉には、あなたのために言っているのよ、という決め台詞が裏にもれなくついている。
彼らと長く接してきましたが、実は大人の「都合」でさせられている、ということに感づいている子も少なくはありませんでした。学習中のうんざり顔や、反射的な拒否。
よく考えると、子どもたちは、たいてい自分から好きで始めたわけではなく、いつの間にかうまく誘導されやり始めさせられていたというのが実態でしょう。
なんだか知らないけれど、納得しないまま日々やらされているうちに、「勉強なんていやや」となる。
しかしこんなに毎日取り組んでいるはずの「勉強」とは、そもそもなんなのか?強いる大人も含めて、それがはっきりしているのでしょうか?
それぞれの持つ、「勉強」のイメージは実は大きく異なるのでではないか?
たとえば、「勉強」と「学び」とどう異なるのか?それとも同じなのか?
こんなことに正面から迫りたいというなら、やっぱり哲学者の出番です。
というわけで、昨日は若き哲学者を迎えて、このテーマに迫りました。
谷川嘉浩よしひろさん。
専門はアメリカの哲学者、心理学者ジョン・デューイ。
友人も連れて行きまーす、というので是非!となってもう一人急遽加わっていただきました。
高三(たかさん)和晃さん。なんと物性物理学の研究者であると同時に、科学哲学にも長けているという貴重な才能の方です。
前夜に深酒しながら遅くまで打ち合わせをしてきたという情熱京大博士コンビに、小学6年生や高校生たちとたっぷり5時間(!)にわたって語り合っていただきました。

小学生たちへの導入はこんな問いかけから。
1.キミはいつから勉強しているの?いつまで勉強するのだろう?
2.周りの人はなぜキミに勉強してほしいと思っているのだろう?
そして、
3.なぜキミは勉強をするのだろう?
こんな対話を一時間以上。
子どもたちはもちろん、講師の先生たちも我々も含めて各自が自分はどうであるかを語ります。
勉強とはなにかを確定しないまま始めた対話なので、それぞれの勉強のイメージがいかに異なっているのかもよくわかりました。
生まれたときからずっと勉強している、といった女の子の答えは新鮮でした。
勉強しろと言われたことあらへん、という子が何人もいたのも、まあうちの教室の子ならではかな。
しかしなぜ勉強を、となると、なかなか子ども側からは答えがうまく出なかったか。しかしまあそれは当然でしょう。
それよりも私が注目したのは、「将来の選択肢をなるべくひろげておくため(いまこの時を捧げる)」といった、大人面をした優等生たちの得意な「意見」がこの子たちからは出なかったことでした。
一緒に軽食タイムをはさんで、後半部。

まずは皆で「世界の果ての通学路」を鑑賞。

学びの環境がここほど整っていない国はまだまだたくさんある。そこに住む子どもたちが、勉強をするために、はるか遠方まで舗装もされていない山道を毎日通う姿。

「学校まで18キロ毎朝」
勉強をすることで、文字を習得し、それゆえに本を読めるようになる子ども。文盲の親に読み聞かせをするシーンもありました。
まさに世界(認知)の広がりや、将来の可能性と勉強が直結している姿でした。
見せた上で、キミたちがいかに恵まれているか(だからますますしっかり勉強をしよう)といったお説教はありません。ただその姿を見せる。
そろそろ長時間になるにもかかわらず、子どもたちの多くはよく画面を注視しつづけていました。
このおふたり、息があっていて、それぞれ味のある語り口で、子どものひとりが「漫才みたい」ともらしていましたが、まさにそんな才能で長時間をもたせ、言葉を引き出してくれました。
さて小学生たち。物性物理なんて言葉を知るわけもありません。高三さんのような方が来ているのに、その話をきかないままはもったいない。
ということで、最後に小学生向けに即席、物性物理紹介をやってもらいました。


じゃあ、ちょっとだけと始まった講座は、なかなか終わりません。原子、電子、結晶構造・・・。磁石にくっつく物質とそうでない物質はなにが異なるか?最後は本格的数式まで。
しかし、ほんとうに楽しいと感じているものについて本気で話し続けると子どもたちは、なぜだか引きつけられるもの。これは前半の哲学を表に出さない哲学的対話の時もやはりそうだったと思います。
今回、「なぜ勉強を・・・?」という問いに対し、子どもたちにキレイでまとまった答えを示しませんでした。
そもそも谷川さんは、むしろなぜ学ぶのかがわからなくなる(なればしめたもの?)のではないか、とすら話していたのです。
ところが、最後に、二人の子が。
ひとりは高三さんの情熱方程式講義のあとに、
教室の隅っこで、「あんな式を計算なんか(すること)で、くっつくかくっつかないかがわかるんですか、・・・はあ・・・、」と質問というか感嘆というか、そんなつぶやきを。
そしてもうひとりは、帰る前にもじもじと谷川さんに寄っていって、
「何か・・・哲学の・・かんたんなおすすめの本はありますか?」
幼いころから知っているこのふたりの子の内部で、いままさに起きているだろう、なにかの化学(?)反応の瞬間を見た気がして、個人的に感動をしました。
(この感動は若いお二人の先生にはあんまり伝わっていませんでしたが。しかし小学生にこんなひとことを言わせるというのは、そんなに簡単なものではないということは、小学生と日々接している人にはわかっていただけるか。)
これだけで、今日は十分な価値があったと感じました。
なおかつ、これこそ「なぜ勉強をするか」に対する答え、というより、その問いに正面から対してみることによる帰結かと思いました。
おそらく他の子も、この若き二人がなんだか得体の知れない情熱で、取り組んでいるという印象は残ったでしょう。もちろんそのことで明日からいきなり情熱的に勉強に取り組みだしたり、物性物理学や、ましてや哲学を始め出すことはありえない。
しかしなにかの節目ではそのことをふと思い出すかな。
あ、世の中には「勉強」が楽しい人がいたな、と。
そういう勉強もあるんやな、と。
じっさいに、学ぶことは、楽しいことだと思います。
ただ学校制度や机に向かうことが強制的に前提とされてしまっている(かのように思える)のが、見えにくくさせているだけでしょう。
そんなテーマについても、またお二人にいつか楽しげに語っていただけるかと期待しています。
谷川さん、高三さん、今回はありがとうございました。
またよろしくお願いします!
※後半部高校生たち向けの講座の様子




※最後に上の子に対しての谷川さんから推薦された哲学書の紹介をしておきます。
うちの教室にも早速置いておくことにします。
『子どものための哲学』永井均(講談社現代新書)
『子どもの難問』野矢茂樹(中央公論新社)
『科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏 科学がわかる哲学入門』冨田 恭彦(角川ソフィア文庫)
『科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義』冨田 恭彦 (角川ソフィア文庫)
『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内』(PHP文庫)野矢茂樹
『哲子の部屋 Ⅰ: 哲学って、考えるって何?』NHK『哲子の部屋』制作班
※シリーズもおすすめ。
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靴
子どもたちと付き合うようになって、気づいたのが、これ。
子どもというのは、ほうっておけば、靴なんかそろえないんだということ。
同時に、この「靴をそろえる」ということへの強迫は、かなりの大人たちに見られるということ。
始まった当初、小学生まで戻って子どもたちを教えることにした、と自分の教室を紹介すると、ああ、靴をそろえさせるところからやるんですね、といった言葉が返ってくることが多いので意識しはじめた。
先生と呼ばれる人にも、ここへこだわる人はかなりいて、いわば「試薬」になることもわかった。
それは靴をそろえてあいさつをしながら教室に入っていく子と、脱ぎ散らかして遠方からジャンプして入っていく子をみると、これまでのしつけられかたや、あえて言えば「育ち」のようなものが出てしまうのはたしか。
しかし、すべての基本でしょう、と問答無用に核にすえる人を見ると、素朴に、なぜかと思う。
大切なことは、実は他にもたくさんたくさんあるはずで、その中からなぜこれを取り出してしまうのか。
それはおそらく脱ぎ散らかして叱られる子どもの問題ではなく、そこになにより着目してしまう、その人の無意識の問題だとわかってきた。
これは象徴的な箇所で、これだけは許せないといった、根源的な拒否は、実はあいさつできるできないなんかより、かなりきついものだと思う。
じゃあ脱ぎ散らかした方がいいんですか?もちろん、違う。
やっぱりそろえた方がいいんですね?それも違う。
そろえるかそろえないかという、なぜそれなのか。なぜ延々とそこが気になるのか。
おそらく本人にもどうしようのない世代をまたぐ伝達の問題なのだろうけれど、「靴」はほんとうに象徴的で、実にわかりやすいので、このように言葉にして取り上げることはできる。
きっと言われた人たちは、ちょっとだけ意識をすることだろう。
しかし見えにくい「靴のそろえ」のような強迫が実はいたるところにあふれていて、特に子どもたちは強制的にそれに取り囲まれている。
では、どうするのか。
そこに違和感をもち、気づいた者が、一つずつ丁寧に、言語化(意識化)していくしかないのだと思う。
この種の話をした時に、反応はいつも両極端になる。
根源的な箇所に触れられたという怒りや反発を感じる人とは、まだしも可能性があるか。
気まずい沈黙で、そわそわしはじめる、といった場合は、これはなかなか届かない。
この話の結論は、たとえ靴をそろえなくても子どもを叱ってはいけない、ということではないんですよ、と付け足すと、(場によってはほぼ全員が)あっけにとられることも珍しくない。
いっぽうで、そういう言葉にこそ共感をもってくれるような人も必ずいる
そういう人とは、そこからこそ関係を始められることもある。
さて次の集まりではどうかな。
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新年度 ご挨拶代わりに
「今日思いがけなく、古い友だちから葉書を受け取った。」
この一文から始まるエッセー。
なかなか魅惑的な書き出しで、読ませます。
さすがの串田孫一節。
これが今年の京都大学で出題された国語の問題の一部です。
教室に帰ってきた受験生たちが、これについて熱く語り合っていました。
難しい文章ではありません。
設問はきわめて単純。解答の、「自由度」も大きい。
このような文章を的確に読み、設問の意図を正確に理解し、時間内に解答として書き終える。しかもその文章の内容をしみじみ味わいながら。
こうなると、なかなか難しい。
では、こういったことがいかにして可能か。
漢字や語句など細切れ事項暗記の積み重ねだけでそこに到達するとは到底思えません。
受験界に横行する、素朴な読み取り公式の習得でも対応は難しいと考えます。
というよりもそういう発想の受験生(や、指導者)たちを振るい落とす問題選択なのではないかと推測します。
個人的には、やっぱり、まずは読んでないと話にならないのではないかと思います。
ある程度の読みの蓄積がなければ、解きながら文章の内容を愉しむ、といったところまでは届かないのではないか。
しかも受験対策のために読む、といった顛倒した発想ではない読みの蓄積であることがポイントです。
もちろん、読んでいればいいということでもないのは当然です。
読みだけでなく、「考えること」の蓄積こそがほんとうはより必要なはずです。
加えて、この文の後半で触れられている太陽の光具合にまで気づくには、直接触れ、鋭敏に感じ取るたくさんの身体化を伴う体験を要するでしょう。
どういった学生を迎えたいのか。
そんなところまでを考えさせる、なかなか奥深い出題です。
3月からうちの教室は新年度になり、新入会の子も加わってくれます。
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高校合格

大晦日の決意。
そして、次々と高校合格の報が。
この学年はその日が迫ってくる中で、まず目つきが変わり、取り組み方も変化し、そして成績が急上昇するという、順を踏んだ「進化」をしていった子たちだった。
仲間同士の助け合いやさりげない気遣い合いもありながらの、ここまでの日々。
いずれもそのような場をともにつくりあげた、彼ら自身の力。
好結果が出たことよりは、そっちにこそ価値があると思う。
志望校受験がまだ残っている子もきっとやりきってくれることだろう。
私個人としては、これまで高校生たちを3年間育てていくという経験を何代もずっと重ねてきたので、この教室でお預かりしたあの小さかった子たちが、ようやくここまで来たか、という、迎え入れの感慨がある。
ようこそ、という感じかな。
受かった子はおめでとう。まだ続く子は、ここからラストスパートだよ。
新高校1年生講座
高校入試もいよいよ本格開始です。
うちの教室では、小学生から大学受験生まで10年以上にわたって子どもたちを育てています。
受験を終えれば、高校入学が待っています。
環境が大きく変わる次への接続がスムーズにいくようにと、サポートを準備しています。
まずは目の前の受験を突破です。
そのあとも、しっかり支えることを伝えて、
安心して受験に臨んでもらおうと思います。
受験生の皆さん。
体調を整え、落ち着いて、力を発揮してきてください。
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新高校1年生(現中学3年生)
◆高校数学準備講座開講◆
2017年3月4月
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□4月からはいよいよ高校生です。高校入学後は本格的な数学を学ぶことになります。
□そこでは、これまでの計算中心の内容から、論理、証明に重心が移ります。
中学までとは比較にならないペースや水準で進んでいく高校もあります。
単純反復訓練に徹してきた人たちは、ここで苦しむことが多いのですが、学び方によっては、ここからこそ数学の醍醐味を味わうことができるのです。
□本講座では、入学後に余裕をもって対応できるように準備を着実に行いながら、本格数学の魅力を伝えていきます。
□なお4月からは、レギュラー講座も開講しますがは、基本的に本講座受講を前提として進めていきます。(本講座のみの受講も可能です。)
新年
明けましておめでとうございます。
大事な時期に子どもたちと接する場として、そこに関わる者たちの質や、真摯な思いはたいへん重要であると考えています。
スタッフ一同、その点をあらためて確認し、この一年も取り組んでいくつもりでおります。
大晦日には最後の学習に続いて、小6、中3、高3の受験生たち全員で教室内の大掃除をしました。
先生、何から始めたらいい?次は?これもどう?
損な役回りを押しつけられたという受動的な者では決してできない、各自の生き生きとした積極的な働きぶり、笑顔、階段の軽やかな駆け上がり・・・どれもたいへん清々しいものでした。
単に受かることのみに徹するのではなく、この表情をもって受験に臨むことを支えることこそが、この小さな教室の価値であると実感できた瞬間でした。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
数理言語教室ば
代表 石橋英樹
なんで計算なんか、せなあかんの!?
数日前のこと。
小学生たち、たっぷりと計算練習。
時間が積み重なったところで、突然、一人の子が頭に手をやって、大声をあげる。
ああーーー!なんで計算なんか、せなあかんの!?計算機使ったらエエことやん!!
みな、一瞬、静まって、それから苦笑。
いつものおちゃらけで、煮詰まった場をほぐしてくれる貴重な存在。
(その文脈がわかっているので、)私は、一瞬、迷ったけれど、
まさに!
そこはとても大事だと思う。
と、正面から受けた。
この先、彼らが、社会に出た時に、たとえ理系の現場だとしても、このような「計算」(およびそれに類したこと)は機械の役目になるだろう(あるいはすでになっている)こと。
したがって計算スキルを鍛えるということが単独で、どれほどの意味をもつのかは、十分に考えなくてはならないこと。
とはいえ、社会に出るまでに、通過する、(数年後の)受験においては、このスキルをもたないとやはり不利になるだろうこと。
その意味では、教育が社会の進展に対応するのは、いつも遅くなること。
現状はそのようになっていないという「リスク」を考慮して、いまは従っておくという選択と、教育の対応なんか待たずに自分は先に進むという選択と、二つが考えられる。
後者の選択をするとして、それはそれで、つきあうよ。
彼は目を丸くして、照れ笑いを浮かべ、ふたたび計算練習を始めた。
まあ、また少し自分なりに、考えたり、感じたりしてみるといいよ。
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実は、ちょっとくいさがってきたなら、その次の話もしようかと思っていた。
上記の場面において、選択肢は事実上2つではない。
彼がすみやかに計算練習に戻ったように、実際に選べるのは、ひとつになってしまう。
もう一方を選ぶと言うことは、レールを大きく外れることを意味するように見えるし、その方向で進む(もしくは進むことそのものをやめる)のは相応の覚悟や、パワーが必要になる。
となると、後者を選ぶほどの「度胸」がなければ、おとなしく前者のレールで。という結論になってしまうのも無理はない。
しかし、これは、教師たち(あるいは、大人たち)の巧妙な理屈や誘導だと私は思っている。(しかも教師本人たちも大半はそのことを意識していない。)
ならば、誰もがそんなものに付き合う必要はないはず。
でもじゃあどうするか。
こういう時は、この種の2択の平面そのものから抜け出すのが重要。
たとえば、「計算」ということでいうなら、忠実に「計算」練習をするか、放棄するかではなく、「計算」そのものを徹底すること、あるいは没入することを通じて、本質的な能力や認知の仕方のようなものまで高めるという方向があるはず。
(おまけにその状態になると、そのこと自体が楽しくて仕方がなくなったり、そこから大きな充実感を得たりすることもできる。)
それは何とか式計算ドリルで要領をひたすら習得して、といった、取り組み方では得られない種類のもの。
私自身は、このあたりを抽象的に想像しているのではなく、常に具体的な姿を思い浮かべている。
これだけの数の青年たちを教えてくると、ある種の「覚醒」をする現場にこれまで数多く立ち会うことができた。
受験時期を迎え、「無為」にも思える受験勉強をしていく中でも、ある仕上がりをしてくる少数の青年たちがいた。
彼らは、たかが入試問題にも関わらず、たとえば、それが計算問題であったとしても、その取り組み方、向き合い方を含めて、そこに没入することで、何か認知能力というか、総合力というようなものが異様に高まってくる瞬間があったりする。
その結果、普通では思いつかないような着想を易々と得たり、長大な計算を最後まで見事にやりきったり、思考スピードがタタッタンッという感じでもはやこちらが追いつけないほど俊敏になることも珍しくなかった。
面白かったのは、この状態になった彼らは、単純に受験内容だけではなく、その他のことまで考えたり感じたりできるようになっていくことだった。
たとえば、突然、受験直前に受験とはまったく無関係なあらゆるジャンルの書物を読みあさり始めたり、大学テキストを手に入れてきて先取りの独学をし出すということもあった。そういえば、僕は相対論を超える理論を見つけました、といって論文を突然、書いてきた青年もいたなあ。
見ていると、彼らは頭の中でいろいろ「スパーク」が始まっている、という感じだった。その快感を知ったというか。認知のあふれ出しや急速な広がりがうれしくて仕方ないというか。
この状態になると質問の鋭さも、水準が変わってくる。
この段階に至ったものだけができるという種類の質問があって、その種の問いかけをするようになってくると、私としては、あとはどうなろうと、受験の結果は勝手についてくるな、と判断していたし、正直言えば、こうなると受かろうが受かるまいがどっちだっていいとも思っていた。
この水準になれば、彼の能力を発揮できる場はたくさんあるだろうから。(とはいえ、たいていみんな受かってしまうが。)
ここで元の少年の問いに戻る。
おそらく「計算」ということ以外でも、このような地点に至ることは可能。私が「計算」や「受験」を通しての例を多く知っているのは、たまたまそういう関係の職業であるからにすぎないだろう。
となると、もしも目指すのがここならば、やはり、「計算」練習でなくともいいのだと思う。逆に言えば、「計算」を通してであってもここへ至ることは可能だともいえる。
そして、その文脈のもとでなら、仮に計算機に代用できることであっても、あらためて「計算」(に象徴される取り組み)に向かうというのも無価値とは限らないのではないか。
あそこを意識しながらの積み重ねであれば、いまここでそれに向かう価値も十分にあるというもの。
そういう観点から考えると、文脈を設定する者(指導者や親)には、このあたりを意識する視点はきわめて重要なのではないか。
と、神妙に計算練習を始めた少年をながめながら、あらためて考える夕刻だった。
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宇宙人がふたたびやってきた!
まずは、小学生たち。
宇宙観測ソフトを駆使して、宇宙旅行に出ます。地球を旅立ち、太陽系を超え、さらに銀河系からも外に出て、宇宙の果てまで巡るところからスタートです。
迫力たっぷりの本物の映像を使って、次々とやりとりをしながら、謎に迫っていきます。
さて、ではあんな遠い星までの距離をどうやって測る?身近なところから始めてみよう。そういって、皆を外に連れ出しました。
10メートルおきに、並んでもらい写真撮影。定規をあてて、同じ場所からどのくらいの大きさに見えるかを確かめていきます。距離と大きさの関係をグラフにあらわし、その関係をつかんだところで、再び外へ。
慣れてくると自分の腕と指だけで、けっこう近い値が出せます。これはもっと遠方でも応用できるのでは?
話が次々とふくらんでいきました・・・
そんな中身でしたが、なにしろ関西出身ジョーテン博士の独特の口調なので、小学生たちはなんだか喜ぶわけです。おまけに最後は、全員がお土産をもらって、うれしそうでした。

******************
といった質問まで。
そんな彼らに、ジョーテン博士流の、アドバイスも最後に付け加えられました。
初選挙
投票に行く、行かない。
行ったとして、複数の中から、だれを選ぶ、選ばない。あるいは白票を投じる。
投票の権利が発生した、ということは、そういった選択をするということです。
そんなこと言われたって知らねえよ、とか、よくわかんない。受験が迫ってそれどころじゃない。
大半の青年にとって、そのあたりが正直なところだと思います。
そこで、投票を二日後に控えた昨夜、「選挙制度」をテーマにしたイベントを行いました。18歳未満も含む高校生向けです。教室の生徒ではない子も、参加自由としました。
講師は、大学で選挙制度史をまさに学んでいる、Y先生(われわれにとっては、かつての生徒でもあるので、T君)です。単に優秀なだけではなく、ここまで自分なりのこだわりのゆえにいろいろな苦労も、回り道もしてきた彼を信頼して、特定の党派に偏らず、とか、なるべく俯瞰的に、といった注文すらつけずに、ただ、頼む、とだけ伝えました。彼も是非、と即答でした。

まずは、20世紀初頭の画像です。ドイツ。はじめはそれほどの存在とみなされていなかったヒトラーがいかに権力を握っていくのか。しかも一見「合法」的に、かつ過半に届かない支持数で。あるいは、時代を代表する知である、哲学者ハイデッガーまでもが、それに抗することができない姿など。

画像の生々しさに青年たちがひきつけられたところで、独裁者のイメージを各自に問うていくY先生。そして、あらためて、独裁はなぜいけないのか?の問いも重ねます。
そこで登場するのは、政治家を引退した、橋下氏の過去の「討論」風景。シンガポールを引き合いに出して、事実上一党独裁のかの国がいかに発展してきたか。かならずしも独裁は負の側面だけではないという論理が続きます。
青年たちは迷いはじめる。当然です。
こういった時は、どうすべきか。歴史を振り返ってみるという方法がある、というのがY先生の提案でした。
そうして、歴史の振り返りが始まる。


「人の支配」の時代。王たちがどのような形で、国を統べ、やがて処刑されていくか。「戦争」というものの歴史も語られます。いまのイメージとは違い、たとえば収穫期に休戦をするような戦い方だったこと。あるいは、戦っているのは、実は傭兵たちだったということ。しかしナポレオンが登場。いかに戦いに強かったか。その理由はなにか。

専門の軍事組織ができる経緯。そこに従事する職能者たちの存在の意味。2度の世界大戦を通し、大量殺戮兵器と兵士の大量動員へいたる流れ。そして全体が戦争へ駆り出されていく時代へ移っていく様子。
そこに「国民」意識というものの発生の解説も加えられ、そうしていよいよ選挙です。
日本を例に、選挙導入時の「25歳以上の男性。高額納税者のみ」といった、最初の選挙資格と、やがてこちらも戦争を経ながら拡張していく過程が解説されていきます。



じつにそのような長い歴史をもって、いまこの選挙権をわれわれは得ているということ。かみしめよ、という命令形ではなく、おのずとそこに気持ちが至るように、Y先生は続けていきました。
さて、では現状のこの国の選挙制度とはどんなものであるか。どういう特徴をもっているのか。具体的に説明をしていきます。



大選挙区制と小選挙区制の違い。比例代表制とは何であり、またどんな種類があるのか。


同一の投票で、制度によってどのような議席配分になるのか。実際に各グループに分かれ、数値計算をしながら確認をしてもらいました。

さらに、たとえばつい先ごろの英国における国民投票などにも触れながら、民意と代表者の判断の違いがなぜ起こるのか。これは克服できるのか。
また一票の格差などにも触れながら、たしかに現状の選挙制度には問題があることなどもふれていきます。
そのうえで。
ここまでの歴史(市民がいかにして選挙権を得てきたか)と選挙制度の(問題点も含めた)理解をしてもらったところで、いよいよ投票の意義です。



もしもキミたちが投票に行かなかったときに、何が起きるかもしれないのか。「政治なんて勝手にやってくれ!」が何に帰結する可能性があるのか。

強い口調も断定もなく、学問を志すものとして、淡々とした説明がなされ、さらに高校生たちとの、質疑応答。
いくつものなぜ?に続いて、どうやって投票する人を決めたらいいのか。といった率直な質問も出ました。
しかしそこにも、Y君は安易なこたえを与えません。
選び方は実際に人それぞれ。
結局は自分たちの頭で、考えるしかないのですから。
2時間に及ぶ講義。高校生たちは最後まで、熱心に参加してくれていました。
最後に、私のほうから彼に質問をしました。
いまのような道を選んだ理由。その学部や学問の魅力はどういったところか?彼なりに率直に思いを語ってもらいました。
講義の内容そのものに加え、彼の誠実な志望は、進路に悩む高校生たちにきっとヒントになったのではないか、と思います。
高校生諸君、Y先生。お疲れ。いい夜だった!
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宇宙人がまたやってくる!
そのときの様子はこちら。
宇宙人がやってくる
先日、ふたたび宇宙通信が届き、地球帰還の折に、ジョーテン博士がこの教室にも立ち寄ってくれることになりました。
夏休みの特別イベントです。
あれからますますご活躍。国立天文台で一線の天文学者として、太陽の研究活動は続いています。
テレビなどに出てくる、美しい太陽画像は、彼の手による画像処理(作品?)であることも多いそうです。
CGではありません。本物です。

金星の太陽面通過の時は、新聞の一面を飾りました。

磁場のうねり。

さて、来襲日は、8月9日。
当教室の小学生はもちろん、余裕があれば、外部からも若干名募集します。
詳細が決まり次第、また発表をします。
乞うご期待!
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熊本の現場
貴重な経験です。
子どもたちへの報告をお願いをすると快く引き受けてくださいました。
帰った直後で、お疲れがあるにもかかわらず、入念な準備をしていただき、昨日、実現しました。
たくさんの写真は、本物だけに、見応えがありました。

たとえば、強い揺れによって、しばしば1階が崩壊してしまう家には、入り口がなくなってしまうこと。したがって重機で入り口を作ってくれるボランティアが各家をまわること。

発生したゴミを分別する作業が膨大で、人手が追いつかず、そこがボトルネックになってしまうこと。

ボランティアは腕章を明示し、かつ細かく色を変えないと、窃盗を防げないこと。
建物は危険度判定を受けるが、その建物自体は問題がなくても隣家が危険だとその影響で危険判定されてしまうようなこともあること。

雨漏り防止の巨大なブルーシート。体育館での避難。そこでは最初はなかったプライバシー用の仕切りが後日に設置されたこと。

何より現場では即座に困り始めるトイレ。移動可能トイレは個数も少なく長蛇の列。それでさえ最初の3日はなく、穴を掘って対応していた、等々。


遠く離れたこの地からではわからないような現場での話は切実なものばかりでした。





面白かったのは、子どもたちが、各タイミングで、コメントをするのですが、それらの多くが、小学生であるにもかかわらず、けっこう冷静で、かつ的確なものだったことです。一生懸命にメモをし続ける子もいました。

うちの教室では、親御さんたちのお力も借りながら、ともに子育て、という発想でやっていこうとあらためて決意し、昨年末に皆様にも伝えました。それに応じて、今回のお話はもちろん、その他にもいくつも提案はいただいていまして、順次実現していこうと考えています。
もちろん、必ずしも慣れている方ばかりではありません。今回のお母様も、子どもたちの前での話は初めてで、緊張するし、すぐに終わってしまったらどうしようという、当然の不安をお持ちでした。
しかし今回に限らずですが、途中で立ち往生すれば、私たちの方で助け船を出しますし、何ならそのまま引き継ぎます。
実際に始めて見ると、子どもたちが一番手助けをしてくれることが多いです。特にうちの教室の子たちは、こういう突然の企画にも慣れているので、難なく対応します。
今回も報告会はうまく進み、むしろ時間が足りないくらいで、お母様ご自身にも、とても楽しかった、と言っていただきました。実は、卒業生たちも含めて、これまでイベントをしていただいたほとんどのみなさんが同様の感想でした。
あらためて、子どもたちの与えてくれる力は、大きいと私自身も思いました。
今後もいろいろな形でみなさまの助力も得ながら、子どもたちに機会を提供していこうと考えています。
ご報告をありがとうございました!

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みて、さわって、たのしむ、したしむ浮世絵
詳細な解説つき。
浮世絵の伝道師の斎藤先生に、うちの教室で講座をやっていただいたのは4年前。大好評でした。




今回、同テーマの講座に挑戦してくれたのは高3のK君でした。
なんと、息子さんです。
中学生だった当時から、お父様の横で助手役をやってくれていましが、今回、やってみる?と問うと、はいと返事が。
実は、その会話は前日深夜のこと。そこから急遽準備をして、本物の浮世絵を抱えて、はるばるやってきてくれました。
小学生相手に2コマ。高3生相手にも。





4年後でも同じ姿勢で引きつけられる次の世代の子どもたち。
本物の迫力と、K君の落ち着いた的確な説明ぶりに、子どもたちも喜んでいました。
高3生たちも受験勉強合間のひとときに同じ年齢の青年から受けた刺激で、やる気を再充填されていたのが印象的でした。
K君ありがとう!また機会があったら、頼むよ。
(伝道師としても、あとを継ぐことになるのかな?)

これはおまけ。講座後の生徒の作品。
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