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    受験生

    年が明けて2週間後、1月14日、15日はセンター試験です。この直前期、高校3年生たち、いよいよ本気の目になってきました。

     自習室で机に向かっている時間も半端ではありません。しかもかなりのはりつめた空気です。この自習室の戸をあけて中をのぞくときには、私ですらやや緊張をします。


     不思議なもので、この目つきになってくると、基本的な能力値のようなものが高まり、成績もおのずと上昇してきます。
     われわれの仕事というか役目というのは、畢竟、この目つきを会得させることではないかと思います。

     
     その人がそれに本気で取り組んでいるか、なかば逃げ腰であるかは、周囲の者にはすぐにわかります。本人はばれないように装っているつもりでも、それでごまかしようのない何かが発散するのでしょうか。
     

     この時期にこの目つきで取り組み始めると、うちの子をどうにか机に向かうよう言い聞かせてほしいという依頼がずっと続いていた(しかし私はその種の依頼をそのまま高校生に取り次ぐことは基本的にしませんが。)ような親御さんからも、この子なりに一生懸命に取り組んでいるという満足げな(見守りの視線の)​感想が届くようになってきます。

     
     良質な親御さんであればあるほど、結局こういう真摯に取り組むひたむきなわが子の姿を見たいのだというのは、これまでの経験から私は知っています。
     しかも実は、本人自身もそれは同じなのだと思います。


     自分がやるべきときには、やれる人間なんだという体験を持っているかどうかは、かなり大きい。自己肯定の基盤にもなるでしょう。

     その意味でのこの高校3年生最終時期。親の手助けが、いよいよ無理になる、この大学受験という勝負は、それを得る貴重なチャンスでもあります。




     しかしそこに至るまでの「現実」は、そう簡単なものでもありません。

     この彼らだって、高校1年から2年にかけての勉強量は、まった​く不十分なものでした。

     高校1年から同じ調子で課題をこなしていければ、それは‘ラク​’に決まっていますが、そういかないのが、大半の人間というものだと思います。


     もちろん本人たちにも、わかっていないわけではありません。好きで​毎日だらけてとろけてしまうわけでもない。


     やりたいんだけれども、どうしてもテレビや携帯やPCに流され​てしまう。やるべきことがあるのに、たとえばゲームに長時間を使​ってしまう。そしてその後の、あのなんともいえない苦い感情。




     もはや、親もたとえば漫画を読みふけりゲームを散々してきている世代のはずなの​で、このあたりを知っていることは間違いないはずです。
     単純にゲーム​の快楽におぼれてさぼりたいのではなく、やろうと思っても身体が​いうことをきかないという感覚。携帯にしても、漫画にしてもその​他にしても然り。その種の記憶はほとんどの人にあることでしょう。



     私はこれを「下半身と上半身のせめぎあい」、と呼んでいますが、​これはこれできわめて重要だと考えています。


     この「調整」法や「制​御」法の会得こそ、こういう時期に優先的になされるべきもので​はないかとすら思います。




     このあたりのしんどさ、どうしようのなさは、大半の親たちだって経験してきたはずなのに、しかし昔のことすぎると忘れてしまう(もしくは忘れたい)ものなのでしょうか。


     はたして過去に戻って、そんな高校生だった自分を誰かが激しく叱り飛ばしてくれたら、自分はやったでしょうか?それが親であれば?

     実際に叱られた人も多いでしょうが、それは大半は逆効果ではなかったか?



     しかしわかっちゃいるけど、目の前であまりにとろけられると叱り飛ばしたくもなるだろうな、とは思います。




     一方で私たちは、その彼らも今のような勝負時期にはこういう目つきになることをこれまでの経験からたくさん知っているからこそ、一年前や二年前は(親の小言を私たちの胸におさめたままで)見守ることができたのだろうと思います。


     その上で、親やわれわれにしかられることなく、自ら長時間真剣に机に向かう姿をいつの間にか実現すること。



     この教室での目標のひとつです。われわれにとって、それは抽象的なものではありません。一貫して具体的なこの姿、目の前のこの高3生たちのような目つきを思い浮かべているわけです。


     お預かりしている小学生たちも、将来、高3のこの時期にこの姿になることを目指して、今日も長時間を集中してもらいます。

     

     さて、センター試験まで、あと残り3週間。
     この青年たち、何とかこの試練を乗り越えてほしい。




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    theme : 大学入試 センター試験
    genre : 学校・教育

    続けられる子と,どうしても続かない子

     さて年の瀬ももうじきです。紅葉もそろそろ最終期でしょうか。このあたりからは例年,日の進みがますます加速していきます。

     このブログもすこし空いてしまいました。

     子ども達は相変わらず明るく,この教室に通ってきてくれています。おまけに嬉しいことですが,早くも成長を見せる子が出始めてきました。


     今日も算数のテストで,3回連続で満点を取った3年生がいました。

     3年生の総復習テストです。それほど,簡単な問題ではないので,満点だけでもたいしたものです。しかし,むしろそのことよりも,時間ぎりぎりまで何度も何度も自分の答案を慎重に見直しをした上で,ケアレスミスなしに「実力通り」に満点を連続させたその姿が大きな成長でした。

     3月のころには,見直しをするように指示しても,それがどんなことを意味するのかが理解できず,ただ目でさっと読み流して,「見直した」と宣言しては,ケアレスミスを連発していました。
     それがこの変わりようです。

     彼ら彼女たちの集中力も実に長時間もちます。小学3年生が,90分の時間を平気でこなしていくようになりました。しかもわたしは板書およびそれを筆写させることを極力しないように心がけています(この意味はそのうちに詳述します。)から,この90分は実質的な作業時間,自分の手と頭を使う時間です。

     これは高校生でもかなりきついはずです。
     しかもそれを2コマ連続でこなす子もいるのです。



     この教室を3月に始めてから9ヶ月ほどが過ぎました。わたしたちはともかく妙な促成はせず,基本的な土台つくりをすることに専念してきました。

     我々はそれなりに経験も長いベテランにあたる年代ですから,目先の成績を多少上げる程度のことについてなら,そうそう他に負けないノウハウも持ってはいるつもりです。
     しかしこの教室では,ともかく実質的な力をつけることを第一にしようと意識して構えてきました。


     実質的な力とは何か。


     まず長時間を集中して座っていられること。
     しかもその時間の大半を,自分自身で読み,書き,自分自身の頭で考える作業にあてることに耐えられようになること。
     それがこの教室の目標とする子どもたちの姿のひとつです。


     わたしはこの姿を抽象的に思い描いているのではなく,難関大学水準の学習をしている過去や現在の学生たちの具体的な姿を常に思い浮かべています。

     早朝から並び,開門と同時に自習室の最前列の席に座ったまま,ほとんど席を離れることもなく夕刻まで学習を続けていた姿。
     朝の4時過ぎまでひたすら勉強を続けていて,どうしてもわからない問題について同じ学部を目指す友人に質問を送る。するとその友人は即座に返信をしてくる。ああ彼はこの時間でもまだ続けているんだと,自分を更に奮い立たせてあと一時間やり続ける姿。

     今年もまた,年頃の女の子であるにも関わらず,目の下に大きな隈をつくって,昨夜も予習復習をしていたら2時を過ぎてしまい,いつのまにか机に突っ伏して寝てしまっていました。と苦笑しながら報告をしてくれる高校生がいます。

     もちろん,これらは極端な例ではあります。
     しかし基本的には,彼ら彼女たちは,よく頑張り続けます。頭が「良い」とか「悪い」とかという前に,ともかく「努力」を続けられるのです。


     一方でまったく逆の姿も数多い。

     たとえば,カバンだけは自習室に置いて,自動販売機の前でひたすら同種の「友人」たちとずっとだべりつづけた後に,結局一問もまともに解かずに帰っていく姿。
     こんどこそは心を入れ替えて勉強を続けると宣言し,あれこれあれこれ「志望」校への思いや,勉強計画をひたすら語り続けた後,1週間後にまた欠席が始まる姿。
     
     彼らもそうしたくてしているのではありません。そういう自分の姿に嫌悪感をおぼえている者も実に多かった。
     しかしどうしても続かないのです。わたしが見たところでは,やりたいんだが,「身体がいうことをきかない」という感じでした。

     これは普通考えられているような,やる気のあるなしの問題ではないと,わたしは思います。

     したがって,やる気のあるなしの問題と考えて導き出された「解決法」では解決しないと考えています。


     続けられる者とどうしても続かない者。
     
     わたしはこの対照的な姿を是非小学生の親たちに「参観」してもらうべきだとずっと思っていました。そうすれば,子ども時代に何が優先的に身に付けられるべき力であるかが,痛感できるだろうと。


     その上で,さてどうすれば子どもたちに,続けられる力,が具体的に身に付くのでしょうか。


     わたしたちは,ちょうど昨年のいまごろの時期に,そのことを話し合っていました。

     それについて,続きはまた次回以降に。


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    無反応と母たち

     前回,無気力と無反応で触れた反応の薄い子どもたちは,もちろん言葉数も多くはありません。
     (子どもと言っても,実際には,中高生あたりの年代層にあたります。したがって,むしろ「青年」と呼ぶべきでしょうか。)

     これは,このブログの初期の頃にしゃべらない子どもたちでもひとつの例をあげました。
     同僚の誰にきいても,いまどきでは珍しくない光景だと言います。


     言葉を失った彼らが果たしてどのようにしてこれまでにやってこられたのか。

     あのときにも呈した疑問点です。誰しもが思うことでしょう。

     その答えについては,これも関係者ならば,ほぼ一致するでしょうが,基本的には母親の代行です。
     事務的な手続きも,授業予定や行事予定ひとつひとつの確認も,わたしたちへの問い合わせまで,母が代行(もはや代行とは呼べない?)するということが,珍しくはないわけです。

     これについて,わたしのこれまでの経験の範囲では,たとえば父親が代行しているという例はほとんどありませんでした。むしろ父親とは一度も顔を合わさないという場合も少なくはありません。


     これはもちろん,極端な例を意識的にあげています。
     この「無反応」な青年たちについても,それがいまどきの青年の大半というわけでは決してありません。むしろごく少数の例ではあります。
     しかし象徴的な例だとはいえると考えています。

     実は,無反応で無言とは言えないような,反応も豊富でおしゃべりな青年たちの場合でも,前述の母たちの代行の姿は,やはり珍しくはありません。


     たとえば高校生というような年代の子どもについてまでも,そのいちいちを代行してしまう母たちの姿は,客観的にはやはり「異様で」あると思えます。
     いまやそれがありふれた光景になりましたから,徐々に現場の誰もが慣れてしまっていますが,わたしにはずっと違和感が残っていました。


     しかし,わたしはここで母親たちの過保護の非難をぶちはじめるつもりではありません。

     たしかに母達がいまや自ら羽ばたこうとしている子どもの成長に自分の意識がついていけず,子離れがなかなかできないと思える場合も多い。
     子どもへの一種の「依存」となってしまっているケースです。
     これは実際に進路指導をする現場などにおいては,わたしたちにとってもなかなか厄介な問題でもあるのですが,このあたりの分析は(良質の)心理学に任せましょう。


     わたしがここで述べようとしているのは,その種の方面からの話しではありません。
     
     実は母親たち自身も,それなりの年齢の子どもにここまで手をかけざるをえない,自分が関わっていかなくては成り立たないという事態を望んでいるとは思えない。
     にもかかわらず,そうしなくては事実上わまらなくなってしまうという仕組みになってしまっているのではないかという視点です。


     わたしが違和感をいだくのは,何か構造的に仕組まれていることがらについての場合が多いのですが,この場合も同じようなニオイがします。

     このような母たちのふるまいは,何かあまりに典型的に揃いすぎた動きであり,一種の「教育」を感じてしまいます。

     それはどこでなされる「教育」なのでしょうか。

     わたしの学生であった年代の母たちについていえば,彼女たち自身が子どもであったり学生であったりしたときに,このような性質が皆に揃ってあったとはとても思えません。
     おそらくわたしと同世代か少し上の世代についても,事情はさして変わらないでしょう,
     したがって,親になったあとに身に付いた振る舞いだと思われます。

     ではどこなのか。

     それはもちろん,ご想像の通り,学校および受験システムを通してのものだと考えられます。
     まさに「教育」現場において、なわけです。
     一般的には,学校とは子どもたちへの教育の場だと考えられていますが,わたしははっきりと親の教育も担っている,かつ狙っていると考えています。

     その最大の場所は小学校であるとわたしはにらんでいますが,実はその前の幼稚園保育園段階からすでに周到に準備されて始まっているのだということが,自分の子育ての現場からも良くわかってきました。
     なるほど,こういう仕組みになっているのかということが日々実感されているわけです。

     なおかつ,そこに従事する、たいていは良心的な「教育者たち」は,やはりあまり意識的,自覚的ではないのだということは,大学の受験現場などと同様なのだということも見えてきています。

     だから彼ら自身も必ずしも居心地は良さそうではない。

     先生や職員がたもなにかどこかがおかしいと思いながら,政治のせいや,いまどきの社会のせいだという説明になんとなく同意しながら,同時にすっきりしないと感じている。


     さてそれでは,このような厄介な問題に,はたしてどのような切り込み方がありうるんでしょう。
     
     そんなに簡単には済まない話です。
     次回以降にまだまだ続きます。


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    無気力と無反応

     夏が過ぎゆきつつあります。

     しかしなかなかすっきりとはしない夏でしたね。
      
     天候不順はもちろん、地震もありましたし、インフルエンザの浸透も、ドラッグの騒動も、お互いが無関係なようなそうでないようなあいまいなタイミングで続いています。
     政治的にも、いよいよ迫る「変革」に向けて、しかし従来どおりの名前の単調な連呼合戦が始まることでしょう。

     それぞれについて、面白い論点や話題はあるのですが、また機会を見つけることにしましょう。

     いずれにしても、なんとも形容しがたい、このあいまいさ、不透明感。
     たしか以前にもこの空気感はあったような気もしますが、何かの変動が起きる前とはいつもこのようなものでしょうか。


     それでも小学生たちは元気です。各地に遊びに出かけてきた小学生たちは、それぞれの体験をうれしそうに報告してくれました。色も真っ黒です。

     一方で、中学生や高校生たちの世界文学読書の様子も伝わってきています。

     いつの日にか、キミの高1の夏はどんなことをして過ごしたかと問われて、そういえば、あのときはカラマーゾフを読破した、とこたえられるということ。あるいは、そのように記憶に刻まれるということ。
     それはどれほどの価値や中身をもつものであることでしょう。


     同じ問いに対して、「あの夏休みには、何とか式問題集を何ページから何ページまで(宿題だから)書き写した」とこたえることとの落差を考えてみてください。

     それは単純に2年後の受験の夏をにらんだとしても、実は前者のほうが「効果」もあることは間違いありません。
     宿題チェックを受けるからという姿勢で仕方なくやらされた数十問など、自分でその気になって始めたときには、1週間もあればこなせるわけです。


     もちろん、そんな「効果」を狙って読書をしているわけでも、させているわけでもありませんが。
     その意味でも、いまここは、稀有な場となっていると思います。



     ところで、わたしと、あしゅら男爵は、ば以外にも講習が続いています。

     最近はすっかり「まじめ」になってしまった受験生たちの前で、何時間も連続でしゃべり続ける毎日です。

     「まじめさ」というのが、最近の学生の特徴だと思います。
     これを意外だと思う、大人の方も多いでしょう。

     わたしの最初の教え子たちはそろそろ30代も後半あたりになろうとしています。
     子どもたちの親の世代もその年代か、さらにその下になってきました。したがって、この世代がどのような教育を受け、どのような学習をしてきたかを、おおよそのところは、具体的に知っているわけです。

     私の記憶からすると、このベビーブーム世代の方がずっと「不真面目」でした。「無気力」さや「だらけ具合」でも、この世代の方が上でした。
     競争が厳しかったはずですから、本来であれば、これは逆であるべきだとも思えます。
     しかしわたしの実感では、やはりそうでした。


     このあたりを象徴する記憶があります。授業に参加できない中学生たちが、机にあごをのせて、とろけた目で黒板を惚けたように見ている光景です。
     いかにもやる気のなさそうなこのような姿勢は、実は最近はあまり見られなくなってきました。

     わたしがそのことを思い出したのは、外国人たちを相手にしていた時です。

     わたしは、ここ数年、留学生たちを相手にも講義をするようになりました。彼らは優秀な人材もかなり多いですが、必ずしもやる気に満ちている者ばかりでもありません。
     彼らの中には、(特にランチの後の時間の)授業中にこの姿勢をとるものが見られるのです。

     それを見たときにわたしは、そういえば最近、日本の学生にはこの姿勢はすっかり減ってしまったと思ったのです。

     ではいまの学生たちはどうなのか。
     授業は「まじめ」にききます。欠席も少ない。あごも机についていません。

     しかし何とも「反応が薄い。」「無反応」である。
     これに尽きるのではないでしょうか。

     このあたりに思い当たると、「無気力」と「無反応」が違うのだということに気づきます。
     そして、「無気力」であるためにも、実はある程度の気力を要するのだということがわかります。
     さらにはこの「まじめさ」を本当にまじめと呼んでいいのかは,きわめて怪しいともいえる。
     このあたりには,皆既日食の時にも触れました。

     となると、「無気力」よりも「無反応」の方がより深刻であるともいえます。やる気スイッチでもテーマになった、やる気をいかに出すことができるかという課題も、それほど単純には考えることができないということが予想できます。「まじめ」に見えるからといって,安心できるわけではありません。

     そして,もちろん、そう単純に解決もできないでしょう。

     「うちにお任せあれ」というように「解決」をうたっている場所もあるようですが、その「解決」についても、もう少し詳細に丁寧にその実態をみていく必要がある。

     続きは次の機会に。 
     

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    やる気スイッチ

     さて世の中は世界同時不況に続いて,パンデミックがほんとうに到来するのかやり過ごせるのか,というあいまいな「不安」の中にあります。
     その「不安」の主語は,私なのか私たちなのか,我が国なのか世界なのか,もしくはそのいずれでもないのか。

     一方で,一見このような出来事とはいまだ無縁に見える日常の中で,「ば」の開講からそろそろ三月目を迎え,子どもたちは元気に教室に通ってきてくれています。
     遠くの地からのニュース音声を背に,元気で無事に通ってきてくれているのは,何よりうれしいことだと実感をします。


     本来であれば前回「先生」のタイプに続いて,「なぜ子どもたちは‘勉強’ができないのか」というテーマで今回は書くはずでした。

     しかし今回は「やる気」について触れましょう。わたしにとって,これまで一貫して大きなテーマであり,教育を離れたとしても,もっとも中心的な関心のひとつです。

     むしろ今日のような日は,このようなテーマに触れるのにふさわしい日だと思います。

     自分の子どもの「やる気」が見られないことで,悩んでいる親御さんはとても多いと思います。

     うちの子は,なぜ思うように「やる気」を出して,頑張ってくれないのか。なぜこんなにいつもいつもだらけてばかりいるのか。なぜ決められた「勉強」もせずにいつも遊びほうけてばかりいるのか。

     これは実は,多くの教師の抱える悩みでもあります。

     これに対しては,どのような「解決策」があるのでしょう。

     もちろん,身体のどこかにある〈やる気スイッチ〉をうまく探し出して,それを押す・・というのは,お手軽でばかげた夢想です。
     そう,夢想のはずです。
     しかしほんとうに?ほんとうにばかげた夢想でしょうか。
     

     「身体のどこかにある」というのを,検索範囲をもう一段拡げてみて,「心身のどこかにある」にしてみてはどうでしょう。それでも〈やる気スイッチ〉はみつからないんでしょうか。

     わたしはこの「やる気問題」を考え始めたのは,最初にバイトで中学生を教え始めた時からです。

     いろいろな学年を教えた経験のある人はおそらく皆が一致すると思いますが,中学生の特に2年生のしかも成績の下位層はもっともやりにくい授業になります。
     ともかく彼らにはやる気がない。しんどいことには一切関わりたくはない。素直にもなりたくない。だけど,権利の要求はそろそろ一人前にはしてみたい。
     彼らは,まともな大人が見れば,実に嘆息すべき存在です。いらいらもしてしまうことでしょう。

     しかし私はいらいらする前に興味が湧いてしまったのです。

     なぜこれほどまでに,彼らはだらけきってしまっているのか。なぜこんなに後ろ向きなのか。果たしてこんな彼らにでもやる気を出させることは可能なのか。もし可能だとしてもそうすべきなのか。

     当時,わたしはベテランの講師たちと怖い物知らずで議論をしていたのを思い出します。

     そのうちの一人,人格的にも尊敬すべき人物は言いました。
     どんなに強制的にやらせようとしても所詮,無理だと。馬を川まで連れていくことは出来ても,無理に水を飲ませることはできないという主張です。

     しかしわたしの立場は違いました。わたしは,そこそこに優秀でその作業に手慣れた人物なら,馬に水を飲ませることは可能だと反論したのです。
     今でもその認識はかわってはいません。素人には無理でしょうが,その道の‘プロ’ならば,それなりにあれこれやって飲ませることでしょう。それが‘プロ’というものです。

     これは中学生相手の場合も同様でしょう。
     有効な方法はあるのです。
     ただ有効だからといってむやみに使うべきかは別問題ですが。

     たとえば,いわゆるスパルタ式と分類されるような方法はやはり有効だと思います。中学生といっても`所詮’は子どもですから,やはり厳しい迫り方をすると,それは効きます。厳しい(顔や態度の)先生の出した宿題はやはりやってきます。そうすると,成績も自ずとそこそこには伸びてくることでしょう。

     しかし,この種の方法で効果を得ている教師は,わたしは個人的には生徒の立場でも合いませんでしたし,同僚として裏から見ていても首をかしげるような人物も多かった。
     この種の強気な芸風は生徒の服従を要求することとセットです。服従をされているうちに,徐々に感覚が麻痺してきているように見えました。しかしこのあたりまでなら,まあ構わないという立場もありうるのでしょう。「成績」を上げるという効果が実際にあるのですから。

     しかしわたしが問題だと思っていたのは,服従をしない生徒への態度です。自分の権威に伏さない生徒には排除や拒否の反応が激しく出てしまう。
     生徒の将来を考えて,あえて厳しい態度をとっているということではなく,結構,余裕のない本気の拒否です。横から見ていると,結局,強気を演じている自分の不安がそのような形で出てしまっているのだという構図がよくわかりました。

     わたしは人物を見るときは,その人が自分の味方ではなく敵に対してどのような態度をとっているかに注目しますが,まさにその点で,首をかしげる態度であったわけです。

     とはいえ,いまの時代,この種のスパルタ式の芸風の個人はすっかり減りました。

     しかしそれにかわって増えたのが,同種の発想で成り立つ組織です。

     個人で言えば厳しい顔や態度であったものが,組織になれば,もちろん厳格な徹底した「管理」ということを意味するでしょう。いまどきは実際には,こっちの方が多いわけです。

     そしてこっちの方が何倍も厄介なわけです。

     しかし続きはまた。  
     
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    数理言語教室 ば

    Author:数理言語教室 ば
     「小学から高校までの12年教育」
    【小1から始めて、集中力、継続力、自発性ある子に】

    ****************

    ■子どもたちは樹の香りのする寺子屋風の教室で、無垢の木の机を囲み、床に座ってのびのびと学習します。

    ■大学受験予備校講師や中学受験指導経験豊富なプロ講師が難関大学突破水準を目指し、12年間をかけて、子ども自身に読ませ、書かせ、考えさせることを徹底するという本来そうあるべき方法で丁寧に指導し結果的に高水準の学力をつけていくことを目指します。

    ■「自分からなかなか始められず、始めても続かない」「親や教師が常に横についていないと、まともに前も向いていられない」といういまどきの手のかかる子ではなく、長期間をかけ、集中力、継続力をつけ、自発的に学習できる子に育てていきます。

    ■設置講座:新小1、2、5、6、中1、3高2。小6年英語。

    ■ベテランプロ講師による医学部東大京大など難関大学、超難関中学受験個人指導、少数限定募集。

    ****************

     高の原駅近くに寺子屋形式の教室を開きます。
     子どもたちが杉の床に座り無垢の一枚板に向かって,たのしみながら,のびのびと学ぶ教室です。

     大学,中学受験のベテランプロ講師が,進学中学高校によらず,東大京大国立医学部など難関大学を目標に,小学1年生から高校3年までの12年間を一貫指導します。

     小手先の受験テクニックの暗記ではなく,長期的視点で「読む」「書く」「聞く」「考える」の基本から丁寧に習得することで,余裕をもって受験も突破するという本来そうあるべき形で学習を進めていきます。

    ※詳しくはお問い合わせください。


    ****************

    南野和俊〔代表「言語」担当〕
    :専門 受験国語

    難関中学,高校受験対策指導のベテラン。

    小学生の国語力を戦略的に着実につけていく指導で人気を博する。これまで関西の有名難関中学に数多くの教え子たちがいます。
    一方で大学受験生の指導も長く,多い。

    東京の超難関有名中高校を卒業後,大学では法学を専攻し,有名銀行での社会人の経験もあります。

    カメラから鉄道まで博覧強記。洋酒をこよなく愛し,パイプのコレクターでもあり,アメリカやイタリアのパイプ作家たちとも親交があります。

    石橋英樹 〔「数理」担当〕
    :専門 受験数学,物理学

    大学時代から20年以上を京都で過ごしてきました。

    大学での専攻は天文学。
    科学全般,思想,文学,文化人類学,社会学、映画論など,多くの分野に関心があります。

    超難関大学受験指導経験が20年以上あり、特に京大や国公立私立医学部には多数の生徒を送り込んできました。

    大人数相手の講義から個別指導まで各形式での指導経験豊富。
    大学受験生はもちろん,大学生,社会人,外国人留学生まで様々な指導経験があります。

    京大トップの学生から,全くの0の学力の学生まで,あらゆるレベルの生徒への指導経験多数。

    妻およびまだ幼い娘、息子、そして猫と暮らしています。

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