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    体験授業

     「体験授業」というのが、学校にはいろいろとある。

     たしかに有意義であったり、為になるんだろうなと思えるようなものも多い。企画者や実行者の苦労や献身ぶりが想像できることもしばしば。


     一方で、子どもたちはそれをどう受け止めているのだろうか?



     今日、その種の企画があったという子たちに、どんなことしたの?と、きく場面がこれまで何度もあった。20年以上前から、何度も。

     こういう問いには、子どもたちは、困ることが多い。楽しかった?には単純に、うん、とか全然、とか答えればいいが、内容をこたえるにはそれなりの理解と熱意が必要になる。

     子どもたち。たいていの答えは「ようわからへんけど、なんかやってはった。」というもの。



     大学から、京都に住むようになってまだ長くないときにしばしばきいたこの京都表現は強く印象に残っている。なんというか、その「やってはった」という他人ごとぶりというか、奇妙な間合いというか。

     同時に、体験授業というものの子どもへの到達度合というものも、実に的確に反映した表現だなとも感じていた。


     
     以来、体験させるということは一体どういうことなのか。そもそもそんなことが可能なのか、ということはずっと気にしてきた。



     「最近の子どもは実体験不足」だといった種類の言葉は実に多く満ち溢れている。


     しかし、さてそれを言う人がそれをどの程度の射程や奥行で発言しているのか、それを体験済みの自分の優位を誇るといった、型通りの発想を補強するようなものではないのかどうか。注意が必要だと思う。


     企画者が与えているつもりの「体験」と、実際に子どもたちの受け止めている体験との齟齬。たとえば、こんな感じではないかと、私が戯画的に例に出すのは、次の光景。



     「さて今日は恋愛というのがどんなものかキミたちも体験してみよう」
     といって、教師が生徒たちを集団で公園に引率していく。

     公園には恋人たちがいて、手をにぎって歩いたり、ベンチに座ってお互いうっとり見つめあいながらとりとめのない会話をしている。・・・

     ひとしきり、いろいろなカップルの生態を見せた後で、

     「これでキミたちも恋愛を体験できたね、」と生徒たちを整然と帰路につかせながら、教師は満足気な笑みを浮かべる。


     といったもの。

     いまどき、公園か、とか、お互いにうっとり、ってどれだけ安上がりの演出かとか、隅っこでキスしていたカップルは生徒たちの視野から隠して見せないようにしていた、とかいうことも含めて、体験授業の実質を反映しているのではないかと。



     これはそういうことしか企画できない学校を批判しているのではない。その種の批判ごっこには、興味がない。もちろん、学校という現場で上記のような種類のことが一般的に意識されるようになるという期待もまったくない。


     重要なのはひとつ。さて自分が、企画者になれるとして、上記のような言葉をどう乗り越えることができるのか、ということ。


     実はうちの教室だって、かなりのイベントを行ってきたし、これからも行っていく予定。

     うちのイベントについて、体験授業とは銘打っていないが、上記のことは意識している。現時点で、上記の突破法を見いだせているわけではない。近々見いだせるとも思えない。
     イベントにご協力いただく方たちのもつ外部の力(空気)も借りながら、気楽に明るくやりながら考えていくしかない。


     (ところで、「体験」というのは、突き詰めていくとなかなかつかみにくい言葉。
     
     「体験」した程度でわかることなら、(十分に鋭ければ、)「体験」しなくてもわかるのではないか。「体験」した程度ではわからないことこそが核心ということになるのか。

     仮想現実か、実体験かという発想法は早晩、無力になるのでは。しかしこれはまた別のテーマかな。)


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    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    3年目のバレンタインデー

     本日はバレンタイン・デー。

     今年もAKICAKESのアキ先生にお願いして、特製チョコをつくっていただきました。 

     早速、昨日から子どもたちには配り始めました。きらびやかな、たくさんの種類の箱から自分の好きなのを選ぶ姿は横からみていてもわくわくが、伝わってきました。

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     うちに持って帰っても、ここで食べてもいいよ、と言うと、皆口々に、ここで食べる!いま食べる!

     お母さんに見せて一緒に、という声はありませんでした(笑)。皆、健全に育っています。


     あ、うめえ!とか、もう一個ほしい!とか、叫びながら、瞬く間に食べてしまいます。写真を撮る間もありません。

     しかしゆっくり味わい派も、中にはいました。ちょっと、待った!そこで、ストップ!と、止めて、写真を一枚。

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     アキ先生、いつもありがとうございます!




     で、ニコニコとチョコを食べ終わったら、一転、今度は各自、今日の課題を始めます。この時の、グッと引き締まった、真剣なまなざしへの切り替え。
     この子たちも、ようやくこれができるようになったなあ、と昨夜は感慨がありました。





     今週は今年度、最後の授業週です。開講して丸三年が過ぎました。開講以来、自分で読ませ、考えさせ、書かせるということを、地味に続けてきましたが、いまやいちいち質問してくる子はほとんどいません。新しい単元でもです。


     算数に関しては、ほとんどの子がすでに一学年上の内容に入っています。各自のペースはさまざまですが、それぞれにとって、すべて新しい内容です。

     未習分野に入ると、まずは一度先生が口伝えでおもしろおかしく教えるものだというイメージを持っている人も多いと思います。それがこれまでの、教え方、教わり方のイメージです。
    (学校で行われる、模範授業はまさにこれ。しかしこれは先生が「主役」の発想で選ばれた「模範」です。)


     しかしいまどきの教科書や問題集は実に親切に書き込みがしてあります。知るべき内容はすでにそこに十分に書いてあるわけです。これは、小学から高校まで共通です。
     ということは、子どもたちはそれを読めばいいわけです。読んで、自分で進めていくことは、十分に可能なはずです。

     ところが、いまの時代、これができない中学生高校生が、大半です。だから、塾にも通わなくてはいけない。費用もいちいちかかるわけです。
     そこに書いてあることを、いちいちもう一度、先生に読んでもらわなくては頭に入らない。しかもそんな入れ方、理解の仕方ですから、1週間もすれば、すべて頭から抜けて行ってしまっている。



     教えることで儲けたい側からいえば、こんなにうれしい話はありません。ひとつずつに関わって費用を徴収できるわけですから。
     しかし親の側、そして何より本人にとって、それは大きな損ではないか?


     あまりに、このような子が増えてしまったために、今やこれが「普通」になってしまっていますが、ずっと昔からそうだったわけではないのです。



     私よりも先輩の講師業の人たちと、そのあたりもよく議論しますが、テキストの水準は明らかに下げなくてはならなくなった。書き込みができなくなった(詳細を書き込んでも学生が読めなくなった)と、よく耳にします。




     では、なぜそこに書いてあるにもかかわらず、子どもたちは自分で読めないのでしょう?原因はいくつかありますが、最大のものは、結局、自分で読む癖がついていないからだと考えます。小さいころから、かわりに読んでもらい、更にかみくだいてもらい、間違いかけたら先回りして修正を入れられる・・・・


     言ってみれば、自分で読むことや、考えることとはちょうど逆の特性を強化され続けている。しかもわざわざ幼児期から長期間をかけてです。
     ちょっとつまると、まず自分で考える前にいちいち、ひとつずつ、しかも反射的にきいてくるようになってしまっている子はほんとうにたくさんいます。

     たとえ、それが善意からではあっても、やり方を間違えるとむしろ逆の結果になってしまうのです。



     そのような子が、中学や高校生になって、突然読み始め、考え始めることができるとは思えません。
     そして、何かやろうと思うと、いちいち何とか教室に通い、あらかじめ机の上に教科書セットをそろえておいてもらわなくては、始められない大学生や、社会人に帰結していく。





     いわゆる、「ゆとり教育」の問題点はしばしば議論されていますが、本質は学習時間の多寡ではなく、この点にあると考えます。
     したがって、時間数を単純に増やすことでは解決はしないと予想します。よって、ふたたび何年後かには方針転換をすることになるでしょう。


     しかし、それは今、目の前のこの子たちには間に合わない。

     それが、この教室を始めたきっかけのひとつです。


     では、具体的にどのように取り組めば、自分で読み、考える子たちに育てていきやすいのか。またおいおいここでも、この教室のやり方には触れていきます。




     さて、バレンタインデーということでいえば、今日が本番。本日も、美味しいチョコに子どもたちは喜んでくれるでしょう。


     その様子は、そのうち、(自分でもウイスキーに合うチョコを個人的に注文していた)M先生に報告をしてもらうことにしましょう。
     

    オマケ

     アキ先生の、本格チョコ
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    theme : 学習塾の様子
    genre : 学校・教育

    折り紙

     ゴールデンウイークは好天に恵まれました。今年も子どもたちはあちこちにお出かけしたようで,うれしそうに釣果を報告してくれる子もいましたし,海遊館のシャープペンシルを早速使っている子もいました。

     さて,ゴールデンウイーク明けは大人も子供でも,さすがに多少はぼけてしまうもの。途中でだらけてしまうことがあっても仕方がありません。
     昨日の授業では,いつもは見事に集中して3時間をこなす4年生たちも,前半を終えた時点でさすがにちょっと疲れが見えていました。


     ということで,後半では「授業」を突如中止にして「折り紙」に変更しました。


     「多面体を折ろう」の第1弾です。

     ごく普通の折り紙を使って,いろいろな多面体を折ってみようという「遊び」です。


     山折り、谷折りなどの初歩的なルールだけ確認して、今日の目標は正四面体を折ること。4年生というのは,実は正方形や三角形程度でも知識的にはまだ多少怪しい。もちろん正四面体など,まったく知りません。

     というわけで,黒板に正四面体をラフに描きました。しかしヒントはこれだけ。まずはノーヒントで折らせます。分度器やコンパスは使ってはいけないというルールで。ただし定規は使って良いものとしました。

     えーそれだけじゃわからへん!と最初は騒いでいた子どもたち。

     そのうち一人が正三角形を作れば、それを折り合わせてできることに気づきます。
     しかし実は正三角形を「折る」のも、そんなにたやすくはありません。


     そこからさらにいろいろ試行錯誤をして、定規で一辺を測って、その真ん中から垂線を引いて・・・という、ついこの前習ったことを応用して、正三角形を作った子が出てきました。
     あとは丁寧に切り取って、貼り合わせれば完成。「第1作」と書かせて、日付とともに保存です。

     じつは定規の使用は,線を引くためくらいの範囲ということを想定していたのですが,「授業」ではないので,まあいいでしょう。

     方針が立った後は,さくさくと完成してしまう子がいます。先ほどまでのゴールデンウイーク明けの,とろけの表情がまったく見られません。目はキラキラと輝き,うれしそうです。

     一方,横目で作り方がわかっても、実際にはまったく折れない子がいます。そもそもまっすぐ折れない。余計な動きで紙をくしゃくしゃにする。端から触ってよじらせる。・・・

     小さいころ折り紙したことないの?と問うと,あらへんという答え。
     実際にそうだったのかは別にして、折り紙作業が不得意なのはたしかです。

     しかし早く折り上げた子が助けにまわります。


     こうしてようやく皆、1作目が完成します。ただこれは貼り合わせて作ったものです。もちろんノーヒントでここまでくるのは大したものですが、何とか「貼り」なしでいきたいところ。

     そこで次は折り紙本から抜粋した折り方のページを、各自に読ませて折らせます。こっちのやり方だと、手間はかかりますが、「折り」と「切り」だけで頑丈なものができます。


     ところが説明の書き方があまり丁寧ではないので、なかなか意図を読み取るのが難しい。これまでの折り紙体験なども駆使しながら、突破していくしかありません。

     こうなると、どうやったらいいの、まったくわからん、教えて教えてを連発しつづける子もいます。
     しかし私は算数と同じく、ほとんど教えません。そもそも私の専門でも趣味でもありませんので、自分たちで読んでもらうしかない。

     算数の時間には、質問しても教えてもらえないからと、あきらめて自分でやるうちに、読む癖がついてしまっている学年の子たちなのに、「種目」が変わると教えて教えて癖が出てきてしまうのでしょうか。

     そのうち、ある子は普通に問題集をやろうといい始めます。「逃げ」としてはわからなくもない発想ですし、こちら側が間違えれば、まじめな子だという判断になるかも知れないですが、非常に「野暮」です。

     私はそうか問題集やりたいかと聞き流します。そのうちその子も友人同士げらげら笑いながら再度挑戦し始めました。


     これが雰囲気の悪い中学や高校のクラスになると、寝はじめたり無反応のメンバーが出てきてこの手の企画は崩壊します。

     つい先日、知り合いの数学講師はある高校の二年生のクラスで最後までついに誰一人折り始めもせずに、「授業時間」が終わったとこぼしていました。
     他の年度のクラスでは,見事に歓迎された同じ企画,先生なのにです。

     まさに場の質,ありようの問題だと思います。


     私はこれまでおそらく20は下らない場を経験していますが,この手の企画を突如試して喜ばれる場として見込めるのは数カ所しかなかったと思います。
     何カ所かで私自身も実際にやりましたが,ある場所では生徒の一人がすっかりはまってしまい,折り紙多面体作品を教室中に並べながら受験勉強を続け,専門でもそれをやるためにと理学部に進学していきました。
     これについても,機会があれば触れようと思います。


     この教室を始めるときに,何とかこのような企画が歓迎されるような場にしたいものだと,わたし達は話し合っていました。実際にそういう場でなくては,将来的に「化ける」子は育ちにくい。そもそも教える私たち自身にとっても充実感のある場にはなりません。

     このようなことを行っても,その夜のうちにクレーム電話が何件も掛かってくることのないような,むしろ歓迎してもらえるようなそういう関係が子どもたちとも,親御さんとの間にも成立するような場。

     なかなか難しいことですが,この教室では何とかその方向に近づいていけているような気がします。



     さて,90分後。結局、一人の子がこのわかりにくい説明書きを頼りに、正四面体を見事に完成させます。彼には一切、ヒントを与えていません。

     この子のこんな集中度合い,のめりこみ具合は初めて見ました。
     完成した瞬間、やったー!と大声を上げたときのあの表情は忘れられません。


     というわけで記念撮影。
     見て下さい。この誇らしげな表情。満足げな達成感。

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    こんなことやって、将来何か役に立つの?

     いよいよ今年も10日あまり。
     これが受験生たちになると、「本番までいよいよあとひと月」という言い方に変わります。
     それぞれの現場では、受験生たちは直前態勢で追い込みに入っています。


     ついこの前までは、「あああのころに戻りたい、戻れば今度こそはやるのに。」とこぼしていた学生がいました。毎年の光景です。
     これの変形版で「いままでサボってきたけど、大学になったら今度こそやる」という言い方があります。
     いずれも、いま、この目の前の「現実」から逃れようという動機から来ているセリフです。本人たちもある程度それはわかっています。それに苦笑しながら、あれこれこぼしながら、それでも目の前のいまこの日をこなしていかなくては、「現実」は乗り越えられません。

     (大学になったら今度こそやると言っていた子には、大学生になったあと、どうだった?とわたしはきくことにしています。もちろん半ば以上、冗談ではありますが、実は少し期待しての問いです。ごく少数の例外を除いては、「すいません、ウソでした」と照れ笑いをします。)

     ところで、これの更に変形版にあたるのかどうか。
     「こんなことやって、将来何か役に立つの?」という言い方があります。
     これについては、なかなか構えが難しい。

     実際のこの問い自体は、発する状況や文脈を見ている限りはやはり「逃げ」から来ていることが多いように見えます。


     ただ同時に、「役には立たないこと」もたしかに多いと思えるわけです。もちろん、「役に立つ」の中身の解釈は様々でしょう。しかしそれを一旦、脇においてみます。

     そのうえで、検討してみたとき。学校の勉強で純粋に紙の上の勉強としてでさえ、「役立つ」ことがどれくらいあるのか。また仮に「役に立つ」としてもこれほど時間をかけなくてはならない中身と分量なのか。
     特に後者については、けっこう大きなポイントだとわたしは考えています。


     ゆとり教育であれ、詰め込み教育であれ、その内容に比して、投入している時間は妥当なものなのか。
     形式を工夫することによって、実はこれほどの時間をかけなくても済むのではないか。


     結論としては、わたしは、いま現在学校が使っているほどの時間までは不要だと見ています。どこに「無駄」な時間があるのか。そのためには一般的に「授業」と呼ばれている形式の時間内において、何が行われているのかを、もうすこし踏み込んで見て行かなくてはなりません。


     この点については、教室の現場での実践も踏まえた上でいろいろな方向から、ここでも触れていくつもりです。


     ところで、類似に見える問いとして、次のようなものもあります。

     「こんなことをやって、何の意味があるの?」



     事実上、「役に立つの?」と同じ意図の問いである場合が大半ですが、さてしかし、〝真摯〟な問いである場面もあります。
     これにはどう構えるべきか。
     わたし自身も、さまざまに感じ、考えてきた問いでもあります。


     続きはまた来年のどこかの機会に。
     


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    皆既日食

     夏期講座が始まっています。


     「ば」でも,子ども達が連日,元気いっぱいに,受講しています。わたしの第一の印象はともかく笑顔です。3年生も5年生も,毎日毎日笑い転げている。
     同時にそろそろ互いに誰が誰を好きだとかイヤだとかと、人間らしい集団にもなってきました。

     横で見ながら、子ども達というのはこんなに楽しげに活発に遊びも勉強もできるのだとあらためて実感しています。
     

     と同時に,これまで他で何度か経験してきた,「無言空間」「無反応空間」のクラスなどを思い返してみたときに,この種の腹の底からの笑い方とはしゃぎ方というのは,許されない状態がしばらく続くと,子どもとはいえ意外と短期間で忘れてしまうものなのだとも実感します。


     あの無表情で無反応な「異様」な中学生や高校生達は,いったいどのような無機質の中で,「活気」を削がれてきたのか。
     たったひとつのわからないことについて,声を出すことさえできない態度が身に付いてしまうには,どのような学習環境,成長環境が必要だったのか。

     わたしはこれまでの経験上,あのような無反応は,教わる側にとってはもちろん,教える側にとっても決して良いものだとは考えられないということを知っています。
     もちろん、このようなクラスの雰囲気では、狭い意味でも広い意味においても成績も伸びないわけです。

     「まじめ」と「無反応」は、同じものではありません。しかし両者を混同してしまう教育現場はありますし、確実に増えていっているのではないかと個人的にはにらんでいます。

     これは混同を混同と感知することのできない、場の設計者、および場への参加者が確実に増えていっていることを意味するのだと思いますが、これはまた機会があるときに述べていきましょう。



     さて,皆既日食がありました。

     部分日食も含めれば,日本全国広い範囲で見ることができたはずだったのですが,あいにくの曇天や雨空で結局,見られなかった人も多かったのではないでしょうか。
     しかし,考えてみれば,古来,日食が良い兆しであった例はなかったわけですから,その意味ではむしろ好運だったともいえる。

     とはいえ,皆既日食のライブ映像などを見ると,やはり感動的ではあります。

     このような現象は,われわれの「生」というものの大前提に,この圧倒的な太陽の輝きの永続があるということ。そして地球生命全体がまさにこの太陽から「恵み」を享けているのだということをありありと見せつけます。
     それが,われわれに感動(およびそれが欠けることへの不安)を呼ぶのでしょう。

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     この種の宇宙とのつながりの実感や意識はとても大切だということは論を俟たないことでしょう。
     なおかつ,それについての,「正しい」知識というものも身に付けておくべき必須の教養のひとつだと考えます。


     わたしたちの「ば」では,算数や国語や理科,社会といった細目にせずに,あえてざっくりと「数理」と「言語」という分けかたをしています。
     「数理」は主に従来の数学,算数,理科を横断したもので,「言語」は国語,社会,(英語)などを総合的に包摂していこうと考えています。

     ご存じの通り,理科(科学)の基盤には数学的考えや手法があり,「社会」の内容をやるには国語力などは当然の前提となってきます。

     もちろん,学校現場で細かく分けている現状についての理由はわかりますし,これについてはわたしたちも批判的ではありません。
     見方によっては,そちらの方がたしかに効率的である可能性も十分にあります。

     しかし,「ば」ではあえて,そうしませんでした。
     いわゆる数学と国語を大きな軸にしながらも,そこに適宜,理科や社会の題材を取り入れていこうと考えています。


     そこでの切り口のひとつして,2つの方向があります。
     「空間認識」と「時間認識」というものです。

     くわしくはまた紹介をしていきますが,「空間認識」というのは,いまわれわれのいるこの場所を空間的に知っていくこと。
     近くでは,自分の住む町や県。それを国,地球,太陽系,銀河,宇宙構造と拡げていくわけです。

     一方で,「時間認識」とは,いわゆる歴史的な話です。この自分の歴史,町の歴史,国の歴史,人類の歴史,生命の歴史,地球の歴史,宇宙の歴史・・・といった具合に,これもいくつもの重なりがあるわけです。


     もちろん,「ば」ですべてを扱えるわけではありません。
     しかし,ある程度は意識的に取り入れていきたいという目論見があります。


     この夏期講座では「数理」で,その第一弾の試みを行っています。

     小学3年生と5年生を集めて空間認識(小学生たちにはこの語は使っていません。)第1弾。
     タイトルは「太陽系」です。

     あえて,身近な周辺ではなく,近宇宙から始めてみます。

     写真や画像をふんだんに使って,大きなスケッチブックに切り貼りをしたり,自分で書いていきながら,われわれのこの太陽系がどんなところであるのかを,惑星や衛星の名前を覚えることからひとつずつやっていくわけです。
      
     前期の2日間で,彼らは8つ(現在は9つではありません。)の惑星はもちろん,フォボスやダイモス,イオ,エウロパ,ガニメデ,カリスト,トリトンなど衛星の名前までずらりと言えるようになりました。

     各惑星までの距離を実感するために,廊下の階段に惑星を貼り付けていくこともしました。

     後半でもまた,盛りだくさんの内容でおこないます。

     
     ロボライズも着々と準備はできていますし,英語の授業も信じられないような展開になっています。また次々と報告をしていきますので,おたのしみに。
     

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    「時には本気で怒ってみせることも有効でしょう」

     ゴールデンウイークです。

     この期間は子どもたちが「あまり遊び過ぎないように」と宿題をしっかりと出す学校は多いでしょう。

     「ば」の子どもたちにもゴールデンウイークとは関係なく,いつもと同じ量の宿題は出ていますが,しかし休日をしっかりと遊んで楽しんでくれてかまいません。今年は受験学年の生徒がここにはいませんから,むしろしっかりと遊んでおいてほしいくらいです。

     まあこちらが頼まなくても,たのしんでくれていることでしょう。

     明けてからのそれぞれの休日の報告がたのしみです。
     

     ところで,前回クール・ハンド・ルークからの続きです。

     学校組織としての「管理」についての話でした。前回出した例は90年代のある学校の話でした。

     この「管理」手法はその後,更に徹底し,浸透してきているとわたしは感じています。
     しかもやり方がなかなか洗練されてきているのが特徴です。それゆえに,「管理」している本人たちもそれほど意識しなくても(罪悪感をもたなくても)すんでいる。

     たとえば,厳しい顔の先生が竹刀を持って校門に立っているといった風景なら,これはわかりやすい。ルーク・ジャクソンにとっても,相手が誰であるかは見分けやすいことでしょう。誰の目を逃れれば良いかの判断がつきやすい。

     しかしいまどきの「管理」はソフトな顔と表情の見かけです。表面ではきみたちの自由意思をあくまで尊重しているという風情でさえある。しかも学校を仕切る「独裁者」といった特定の個人の顔がない。
     これはうまいやり方です。

     管理している側の意識はどうなんでしょう。

     やる気スイッチで触れたような,前面に自分の強気を押し出しているタイプの人物の場合は,それ相応の圧迫を自分自身も受けていることはそのときに触れました。
     彼らの共通点は自身が孤独であり,にも関わらず(それゆえに?)「孤独」になることを怖れていることです。
     わたしは彼らを見たときにいつも思い出していたのは,90年代のある塾の生徒管理マニュアルにのっていた「時には本気で怒ってみせることも有効でしょう」という文面です。
     
     ところで,このタイプに同様に分類されそうな「厳しい先生」でいて,まったく正反対の人もいます。誰でも数人は思い浮かぶ(?),ご存知のように愛すべき人物たちです。
     彼らはその役回りを誰かが買って出なくてはならないことを自覚しており,その責務をいわばあえて果たしているような人格で,もちろん子どもにもそれが伝わりますから,厳しい表面ながら愛されてしまう。

     彼らは逆に孤独ではありません。したがって,「孤独」になる不安も少なく,「管理」からはみ出てしまうような性質の子どもまでに,「愛情」を及ぼすこともできる。

     彼らは前述のようなお手軽な講師マニュアルとは無縁です。
     おそらく代々誰かの厳しい愛し方を見て,もしくは自分も同様に愛されて学んできた,一種の「文化」としての接し方,構え方ではないでしょうか。
     逆に言えば,「文化」ですから,現場を見せて意識的に伝えていかなくては途切れる可能性があるということです。

     これら二つの「厳しい管理者」は似ているようで,まったく異なります。
     なおかつ,状況は後者のような人にこそむしろより厳しくなっているとわたしは思います。

     さらに言えることは,前者も含めてその両方のタイプがいまや減ってしまっているということです。
     特に,いまの20代から30代前半くらいまでで,見かけも含めてわかりやすく厳しいというタイプの「先生」をどれだけご存知でしょうか。
     おそらくそれほど多くは思い浮かばないのではないでしょうか。

     たとえ権力があるにせよ,内心「孤独」に怯えている「管理者」,もしくは「管理システム」はまだましなのです。

      
     続きは次回に。 


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    Cool Hand Luke クール・ハンド・ルーク

     著名なハリウッド俳優と言える,ポール・ニューマンが亡くなったのは,昨年の9月26日のことでした。

     そのころ,わたしとM先生は,この「ば」の構想をいよいよ具体化していく作業を開始していました。
     「管理」という課題への間合いのとり方も十分に意識的に検討をしていた中での彼の死は,象徴的な出来事でもあったわけです。

     ポール・ニューマンは,その有名度合いのほどには,名作と呼べる作品を多く残しているわけではないですし,特別にうまい俳優でもありませんでした。 
     同世代のジェームズ・ディーンのように陰影もなく,かといってマーロン・ブランドのような狂気もない。このあたりは本来は知的であった彼自身もよく自覚していたようです。

     しかしわたしは,まだ子どものころに,彼のひとつの出演作品をみて以来,ずっと彼の「ファン」でした。

     その作品とは「Cool Hand Luke」です。邦題の「暴力脱獄」の方がわたしと同世代には通りがいいかも知れません。

    Cool Hand Luke

     ウィキペディア(Wikipedia)から粗筋をひいてみましょう。
     
     「戦場で勇敢に戦い多くの勲章を得、一時は軍曹にまで昇進しながら一兵卒として除隊された男ルーク・ジャクソン。彼はある晩酔ってパーキングメーターを損壊した罪で、フロリダの刑務所に収監される。

     刑務所でルークを待っていたのは、過酷な労働や体罰で囚人たちを支配しようとする所長とその部下の看守たちだった。ルークはそこでも権力に屈せず、あくまで反体制の姿勢を貫こうとする。やがてルークは刑務所の顔役ドラグラインを初めとする囚人たちの尊敬を集め、彼らの偶像的存在になっていく。だが、それは同時に刑務所にとってルークが看過できない存在になったのと同じ意味だった。

     ルークの母親の死を口実に、彼を懲罰房に閉じ込める所長。しかしそれはルークにとって逆効果だった。ルークは懲罰房から解放されて即座に最初の脱走を試みるが、すぐに発見され刑務所に連れ戻されてしまう。

     捕獲された後、以前を上回る警戒の中更に脱走を試みるルークだが、それも失敗。彼は苛烈な懲罰に耐え切れず、一度は権力に対して服従してしまう。しかし不屈の精神で再起を果たし、ドラグラインと共に三度目の脱走を試みる。

     そしてルークは逃避行の最中に、夜の教会で一人神に語りかける。」

     このまとめ方はずいぶんお行儀のよい内容になっています。じっさいはもっとギラギラとした印象の映像で,男たちの汗が臭い,泥がべったりとほおにつきます。
     ニューマンは決してスマートな二枚目の役柄ではなく,しかしだからこそ強烈な印象を残します。

     ルークは犯罪者矯正のための道路補修整備作業キャンプで強制的に労働をさせられます。炎天下,延々と草を刈らされたり,アスファルトに砂を撒かされたり。連日,日没までこの労働は続くのですが,彼らの横には黒いサングラスをかけた看守たちが,ライフルを手にずっと監視をしつづけています。囚人達はあらゆる行動を管理されており,立つのも座るのも、眼鏡を外すのにさえ看守にすべて報告させられ,「ボス」の許可を求めさせられます。

     そのような厳格な管理の中でルークは何度も何度も脱獄を試みることになります。

     わたしはなぜ自分が子どものころにこの映画を気に入ってしまったのかを,後に考えてみたことがあります。
     もちろん,映像の鮮烈さはひとつの原因だったでしょうが,それよりもルークがやむにやまれず脱獄を繰り返す。繰り返してしまう。その無根拠さに惹かれたのだと思いました。何か特定の理由があって,脱獄をしようとするのではなく,他人の視線を意識して格好をつけるためでもなく,ただそうしてしまう。そのような衝動がともかく湧いて出るという描写に,強い印象を受けたのでした。

     とはいえ,実は後にやや詳しく見直してみると,たとえば母の葬儀など,それなりの理由らしいことが示唆されていたりしていました。まあこのあたりが限界だったのでしょう。

     ところで,上の文脈とは別に,刑務所での完全管理の風景は,囚人たちの場所だからこその特殊なものだと考えるかも知れません。


     しかしわたしが知っているある全寮制の学校では,質問によるわずか10分の帰寮時間の遅れでも教師の署名捺印入りの証明書を求めさせ,授業時間帯にトイレに行くにもいちいち申請の書類を所持させるようなところもありました。

     しかも親はもちろん生徒自らもそれを望んで入学してくるのです。他よりも高額の授業料を払ってです。自分はきっと一人ではサボるから,誰かに監視し,強制してほしいという,要望なのです。
     これは実際に本人たちの口から出るセリフです。ハリウッドの喜劇もしくは風刺劇の脚本ではありません。

     続きはまた次回に。

    数理言語教室 ば
     H.I.

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    「先生」のタイプ’

     4月も半分ほど過ぎました。
     この「ば」の生徒たちも,それぞれ新しい学年や,新しい学校になじみ始めてきているようで,学校のいろいろな報告をしてくれます。
     こちらがきいてもいないのに,あれこれあれこれととめどなく,日常風景を上機嫌に語り続けてくれるような教室の雰囲気がわたしは好きですが,小学生たちはそんな感じになってきています。
     
     ところで,今日は教え手である,いわゆる「先生」について。

     教えるということには様々な側面があり,たとえば,「生徒のやる気をどのように引き出すか」は,かなり重要なテーマであって,「やる気スイッチ」を押して・・・という単純な構造ではありません。
     これに関しての先生のタイプもいろいろあって,しかし,こちらは大物になりますので,また次に機会をつくります。

     今日は,その文脈ではない見方をしたときの,「先生」のタイプについて書いてみます。

     一般に「教える」と言われていることにも,実はいくつかの段階や種類があります。
     まず,自分が問題を解けるかどうか。
     次に解けるとしても,それを子どもたちにうまく教えられるか。
     更に教えられたとしても,子ども達の力を伸ばせるかどうか。

     一見しただけではわかりにくいですが,各内容にはかなりの違いがあります。
    しかも必ずしも,段階的になっているわけでもありません。
     このあたりの違いは,親や生徒はもちろん,おそらく当の先生たち自身もあまり自覚的ではないことが多いのが現実です。
     わたしの経験上では,教務のプロ,目利きではないと,なかなかこのあたりの水準で見ている人はいませんでした。

     わたしは,「ベテラン」に相当する年代なので,かなりの数の先生方の様子をみてきました。評判のいい先生方も,実力はあるのに人気は不思議に出ない先生方も,緊張して講義前から汗をかき続けている新人もたくさん知っています。有望な教え子たちを,大学に入ったあとに教え手でやらせてみた経験も何回もあります。

     新人でやらせてみたときに,まず決定的に「向かない」タイプの人も結構な割合でいます。その人物の良い悪いには関係なく,単に向かない人です。そもそも「気の利かない」タイプの人にはこの職業は向いていません。長く残っている人は,かなりのベテランの人でも,近くや裏から見るとやはりこまやかにあれこれと気遣いをしている人も多い。大御所と呼ばれるような人でもです。

     向かないタイプの人はどのみち短期で離れていくことが多いですし,それはある意味でお互いにとって良いことでしょうし,実はどの職場でも基本的にはそうなのでしょう。(「公務員」はどういう実態かは別として。)

     なかには最初からかなり生徒に受けてしまう先生もいます。特に若い学生バイトではそのあたりは顕著です。とりあえず,若くて明るくてそれなりに格好良ければ(かわいければ)子どもは興味をもつからです。ただ,教科知識という意味では,この段階ではかなり怪しい人も多いのは事実です。

     この受けの良さにうまくはまってしまうと,その後,この職業に本格的に就くということになる場合もあります。人気が出てしまったときの高揚感は,なかなか捨てがたいものがありますから。
     そのうちに,最初は怪しかった教科知識も,さすがに反復で定着してきて,30前後では一人前の「先生」となってしまうわけです。しかもこのあたりまで残っている「先生」はアンケートや教務の目など,一種のフィルターも通ってきていますから,教え方もそれなりにうまい人が多い。

     わたしは「教える」という意味で,特にこのあたりの年代に注目をしています。塾や予備校という意味では中核部隊でもあるからです。

     このあたりの年代になってくると,単純に若いというだけでは受けなくなってきますから,授業段取りも充実してきますし,生徒あしらいのノウハウもかなりのものになってきます。
     彼らの授業後には,生徒たちは質問をしようと列をつくります。その列の長さが一種のステイタスとなるわけです。
     とはいえ,質問と言っても,実際には質問ではなく,人気の先生とのコミュニケーションを求めたり,単に甘えてみたいだけというものも多い。たとえば,典型的な会話は,「せんせいさっきの授業ぜんぜんわからんかった」「どこがわからなかった?」「ぜんぶう」「しょうがないなあ,こんどはよくきいておけよ」・・・となって,ふたたび一から解説が始まるというものです。冗談や笑い声のまじる「良い」雰囲気の中で。もちろんしばしば話は横道にそれます。
     彼ら彼女らは,しゃべり疲れると,ようやく帰っていくわけですが,その生徒は今度も理解したかは怪しい限りです。教える先生もそれはある程度わかっています。

     なのになぜ毎回,それが儀式のように続くのか。

     ひとつは,それが「教える」「教わる」ということだと,双方が思っているからだと思います。

     2つめには,それが心地よいからだということも大きい。こういう和気あいあいの中で過ごせることは,生徒にとってはもちろん,「先生」にも確実に心地よいのです。

     そして3つ目は,そうでないと不安だからです。これは実は授業内容が理解も定着もできていない生徒にとってはもちろん,このように甘えてもらうことで,自分の人気確認,自己の存在価値の確認をしている「先生」にとっても同様です。

     2つ目と3つ目はコインの表裏の関係で,実は同一のことでしょう。
    (なおかつ,もっとも深刻なのは,ひとつ目の内容だと思います。
     つまり,「まとも」な教え方・教わり方というものを,そろそろ知らない世代の先生方も中核部隊になってきているという事実です。)

     わたしは教えるということについてのシステムには,ずっと興味を持ってきましたので,このような種類の教え方をしている先生方とそこに付いている生徒については,意識的に見てきましたが,やはり結局は伸びないことが多い。

     しかし伸びないということは,今時では,そのまま入試突破ができないことを意味するわけではありません。
     いまの時代,志望を下げれば,いくらでも学校はありますし,生徒も別にそれでいいと思えば,それで丸くおさまるという顛末になるからです。
     親にしても,あれだけ熱心ないい先生にべったりついて長時間補習までして教えてもらったのに,結局できるようにはならなかったのは,うちの子どもの能力が足りなかったからに違いないと,納得もすることでしょう。

     しかしほんとうにそうだったのでしょうか。
     
     実はこのような「共依存」的な関係こそが,力がうまく付かなかった一因ではなかったのか。
     ここはもう少し分析してみなくてはなりません。

     続きは次回に。 

    数理言語教室 ば
     H.I.

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    算数・数学の教育法

     世の中に数学が苦手な人はたくさんいます。
     中には算数までは得意だったんだけど,数学になってからさっぱりわからなくなったという人もいるでしょう。

     その原因の分析はさまざまにあるようですが,わたし自身はその程度の苦手さということについてであれば,その原因の過半は,小学から中学,中学から高校に段階が上がるときにうまく移行ができなかったことにあると考えています。
     逆に言えば,得意さも,その移行がうまくいったことによるものであることが大半でしょう。

     したがって一般的な水準で数学が得意になるには,算数から数学に移行するときと,中学水準の数学から高校水準に段階があがるときに,注意をしなくてはならないということになるでしょう。

     わたしは,中学から高校へ上がる段階をうまくつないで,スムーズに移行させることを長年経験してきました。したがってどのような間合いで育てていけば良いかをわかっているつもりですが,いつも困っていたのは,小学や中学で悪い癖をつけられてしまった生徒たちでした。

     いわゆる,反射神経の育成のみをされてきてしまっているタイプで,これは必ず伸び止まるのです。
     彼らの特徴は,問題を解き終わると,まずはいきなり答えの数値だけをみて,合っていればそれで終了してしまって何の疑問ももたないというもので,これでは高校数学としての答案をなかなか書けません。
     
     しかし中学や小学の算数数学教育の体質はなかなか深刻で,問題意識をもつ先生方もかなりいるのだとは思いますが,現実で対応をしてしまわざるを得ないということなのでしょう。高校に送られてくる生徒は「重症」な場合も多いのです。

     わたしは彼らの悪い癖をまずは消していくことに優先的に取り組みますが,落ち着いて問題全体をながめながらともかくそれなりに書けるようになるまでに,少なくとも半年はかかります。長いと数年かかってしまうことも珍しくはありません。
     このロスを実感している,中学や小学の先生はどのくらいいるのでしょうか。おそらく良心的で意欲的な取り組みをしている先生も多いのだとは思います。しかし自分が担当を実際にするわけではない将来のためばかりに動くことはなかなか難しいのも現実ではあるでしょう。

     わたしたちの10年教育のポイントのひとつはこの点です。わたしたちは,いまから育てる小学生たちに,将来,実際に高校数学を教えなくてはならない。そのための準備をいまからある程度意識しておかなくては,生徒ももちろん,自分たちも将来に困るわけです。無駄な内容を捨てるとか,いきなり大学受験に目標を絞るなどという,非現実的なやり方はむしろマイナスになってしまうでしょうから,するつもりはありません。
     しかし将来,というより具体的な10年後という時点できちんと力をつけていてもらうように育てることは,まさに現実的な問題として必要になるわけです。それはおのずと,そのようなビジョンの中でのいまという位置づけになってくるでしょう。

     これらの方面からも,語るべき内容はまだまだたくさんあります。これらは後にする機会はたくさんあるでしょうから今回はやめましょう。

     それよりも,数学の教育法というテーマにおいては,この系統とはまったく別の内容の話しもあり,そちらの方がある意味では本質的なものかも知れません。
     たとえば「補助線」ということに関してです。

     図形の幾何学の問題を解く上で,ある特定の補助線をうまく引くことが決定的な突破口になることがよくあります。
     ところが,補助線をそう引くことをなぜ思いつけるのか,ということが,実はきわめて「不思議」なことなのですが,それほど認識はされていないように見えます。

     わたしはこれまで,かなり意識して,数学のたくさんの先生方に質問をしてきました。
     ひとつは,「そもそもその補助線を引くことをなぜ思いつけるか。」
     ふたつめは,「それを他人(生徒)に教えることは可能なのか?」ということです。
     もちろん,実際にはふたつでひとつの問いになっているわけですが,さてどうなのでしょう。
     そもそも答えはあるんでしょうか。


     大きなテーマなのですが,つづきは次回以降に。

     

    数理言語教室 ば

    H.I.

     

    theme : 勉強法
    genre : 学校・教育

    親にとっての不安

     親にとって,結局,子どもたちの教育という点で最も不安に思うことはなんでしょう。

     教育ということを離れれば,もちろん健康に育っていってくれることや,素直な子になってくれることなど,たくさんの優先することがあると思います。

      しかし,それは別として,親として子どもに教育が必要だと思うのはなぜなのか。
     一般的には,将来,「良い」大学に行かせて「良い」職業につかせ,「良い」暮らしをさせるため,といった答えが予想されますが,おそらくそれはあまりに抽象的な言葉すぎて,そんなことをほんとうに求めている親が実際にそんなにいるとは思えません。

     そんな抽象的なことではなく,親にとって切実なのは,この子が将来,自分で独り立ちをして自分たちがいなくなった後も無事に暮らしていけるのか。
     もっと,有り体に言えば,それまでの間に,「道」を外れてしまったり,周囲の皆からのいじめにあったり,外の世界に出て行けなくなってしまったりしないかというようなリアルな不安なのではないでしょうか。

     良い暮らしや,良い稼ぎなどの抽象的な将来の前に,まずはそもそもそこまで無事にたどりつけるのか。その「恐怖」に衝き動かされている親御さんが実は多いのではないでしょうか。

     でなくては,あれほどのお受験競争にはならないと思います。

     もちろん,有名学校に進学したからといって,そのようなリスクがなくなるわけではありません。しかしその種のリスクを少しでも減らせるなら,子どものためにそういう環境を用意してあげたい。そのための手段として,教育を要望するといったところが,本音なのではないでしょうか。

     わたし自身も,幼い子どもを二人もつ立場となったいま,その不安感は良くわかります。様々な子どもたちを具体的に知っている分,その不安感はむしろ大きいかも知れません。

     ただ有名学校進学が,やはり解決策ではないと思います。そういう例もやはりたくさん経験上,知っているからです。

     全国的にも名前を知られている,ある有名進学校の生徒たちはすいぶんたくさん見てきましたが,(なかなか難しいですが,)自分の子どもがもしもそこに行けるようになったとしても,わたしなら勧めません。病の一歩手前や実際に精神的な傷を負った生徒達を幾人も知っているからです。順調に過ごしていっているような生徒もどこか歪みがみられることが多かった。

     たとえば,勉強をするにしても自ら進んで強制管理を望み,それに対してほとんど疑問をもたず従うような性質に見事にされてしまっていました。
     (ちなみにそこの生徒たちが進学をしていった,ある有名大学の内部の人の話をきいたことがありますが,その学校の出身者は大学に入ってから伸びないことで知られていたそうです。もちろん,確証はありませんが。)


     ではどうするか。これが難しい。

     わたしたちはその方面には詳しい,講師業のベテランですが,実際に自分の子どもならどうするかと言われると,実態に詳しい分だけ余計に答えに窮します。
     同僚などを見ていると,結局は,一般の親御さんたちと同様に,できるだけいい学校に入れて・・・という選択をしていることが多いように見えます。

     つまり,他の選択肢がないのです。

     自分の子どもだけの特別な方法があって,単なる客としての生徒には教えないことにしてるような,そんな悪質な教師は見たことはありません。皆,それぞれに目の前の各生徒の将来のことをやはり懸命に考えてはいる。その結果,やはり一番無難なのは,有名校に進学させることだと思えるから,それに頑張って取り組んでいるのです。

     わたしはずっとこの問題のねじれ方を含めた構造を考えてきました。

     おそらく,選択肢は本来の要求や希望(子ども達の独り立ち)とは異なる平面(有名校進学)で示されているのに,現段階ではそれしかないから,それを答えと思い込んでしまっている(もしくは思い込むしかない)ということだと考えます。

     これは一連の食品偽装問題のときの考え方の構造と似ています。中国産品の問題が起きていたのは日本の食品偽装と同時期でした。この場合,あちらもこちらも信じられないから,どちらも食べられないというのが,「論理的」に考えれば,正しい答えですが,我々は食べていかないわけにはいかない。 その結果どうなったかと言えば,スーパーからは中国産品のみが減らされ,人々は日本製かどうかを重視して選んだ。日本製品の偽装が連日報道されているまさにそのときにです。

     もちろん,この背景には複雑な事情が存在していることはわかります。しかしそれと同程度の複雑な背景は有名校進学熱にもあるはずです。

     結局は,有名校進学はストライクゾーン(独り立ちという目標)からは,外れている球(解決策)であるはずなのに,皆が気づかないふりでそれを投げ続けているのではないかということです。

     もちろん,世間的には「失敗」と見なされるような例は外部になかなか漏れにくいし,宣伝もされないというのも大きいでしょうが。(ちなみに,わたしはこのような管理的な学校になじまない生徒の方がむしろ自然だと思っていましたし,そのように本人にも常に伝えていました。)

     ここまでは単なる(簡易な)分析に過ぎません。

     相変わらず,残るのは,ではどうすればいいのかということです。

     その結果,選択肢がないならばその選択肢を自分たちでなんとか作ってみようと考えたのです。
     独り立ちが本来の目標なら,自立した力をつけさせることを第一義にしようと思いました。
     ただし,抽象的な目標ではなく,難関大学という具体的な目標をおきます。

     有名校進学のみが第一目標ならば,どういう方法であってもその試験を突破できればいいわけです。それがいままでの「ねじれ」の実態です。

     しかし,わたしたちは,そちらではなくて,その本人そのものに自立した力をつけさせる方を優先しようと思います。そのように目標の設定を変えることによって,たとえ,まったく同一の教材を使っていても,まったく同じメンバーで教えるとしても,そこの向き合い方は変わるはずだと思います。

     その結果として,有名中学や高校を志望しても良いし,受かってしまっても良い。可能ならば,そのままサポートは続けます。いずれにせよ,自立した学習や思考や行動のできることに長期間を努めて,結果的に難関大学入試でも対応できるようになることを目指します。

     陰湿なイジメや場のありかたとの関わりについては,またこの次の機会に。

    H.I

    「数理言語教室 ば」

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

     今日も工事が続き,杉板の床は着々とできていっているようです。

     わたしは某大手の場所で,中高一貫の生徒を主に中学3年生から育てて,大学まで送るということを10学年分くらいしてきた経験もあります。これはいろいろな特殊事情があったとはいえ,わたしの年齢では珍しいことだと思います。

     青年期の4,5年間というのは,とても長い期間です。その間に何の動揺も迷いもなく,機械のように勉強だけ続けるなどということはありえないし,良いことでもありません。
    青年は喜び,怒り,泣くべきです。悩み,惑い,不安を感じるべきなのです。

     ただそういう時には,こちらも連動して一緒に舞い上がるのではなく,大きく構え,彼らのその貴重な経験をしている姿を長い目で見て,支えるようにとわたしは心がけました。

     そして学習という意味での成長も,同じペースで,時間に比例してということはありえないと考えていました。
     したがって,日々の具体的な学習をさせながら,無理に成長促進をするようなことはせず,ともかく辛抱強く待ちました。ともかく丁寧に書かせ,自分で考えさせることを続けさせて,最初の数年を過ごさせたのです。いわば化学的成長促進剤などは使わず,丁寧に水やりをし,土を肥えさせ,光を当てるということを続けて成長を待ったのです。

     生徒達は最初はなかなか手こずります。
     そういう時には必要な助言は適宜与えますが,べったりと助け続けることはしません。そういうことを粘り強く続けていると,早い生徒だと高校2年生の後半くらいで突如見事な「花」が咲きます。教えたことができるようになるだけではなく,なんと教えていないことまでできるようになってしまうのです。
     そのときの感動は,これを経験した教師でなくては,なかなかわかってはいただけないのではないかと思います。

     こういう経験を何度もすると,結局,生徒たちというのは,教えたからできるようになるわけではなく,自らできるように成長していくのだという確信をもてるようになってきます。
     (これについては,また別に機会があれば,もう少し突っ込んで分析をしたいと思います。誰もが内部には無限の才能をもっているという類の話ではありません。)

     特に飛び抜けて優れた生徒には,ともかく教えすぎないようにしました。最低限のアドバイスや手助けだけをして,できるだけわたしの枠にはめることをしないように注意したのです。
     こういう生徒は基本的にはほうっておいても成長をします。極端に言えば,成長を邪魔しようと努めてもそれを振り切って成長してしまうことさえあるのです。
     今では世界的に名前を知られている生徒もいますが,彼らには実質何も教える必要はありませんでした。わたしに役割があったとすれば,彼らにも型にはまるようにと要求をしてくる学校や人物がいたときに,別にそういう必要はなく,キミはその方向でそのまま成長ができると彼らの側についてやることくらいでした。
     
     もちろん成長の遅い生徒もいましたし,「花」もそれぞれ個性的ではあります。ただいずれにせよ,強制的に咲かせたのではない,粘り強い作業をへたのちの成長は,良い土に根を張り育った茎から咲いた「花」のように,いびつにもならず,それぞれ社会の中で場所をみつけていくと思います。

     わたしたちの,この「ば」では,今度は小学生からです。
     花や茎の前の,芽吹きの時点までもどって始めるということなのだと思います。できるだけ良い土作りをし,まずはしっかりとした根を張らせることからしなくてはなりません。

     期間はとても長くなりますが,わたしたちの強みは「花」の咲く現場をわたしたち自身が直接知っているということです。あそこを目指せばいいという,具体的な目標がありますから,そこに向けて,しかしあまりあせらず,子どもたちとともに楽しみながら,じっくり取り組もうと思います。

                                                              H.I.
     「数理言語教室 ば」

     

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    数理言語教室 ば

    Author:数理言語教室 ば
     「小学から高校までの12年教育」
    【小1から始めて、集中力、継続力、自発性ある子に】

    ****************

    ■子どもたちは樹の香りのする寺子屋風の教室で、無垢の木の机を囲み、床に座ってのびのびと学習します。

    ■大学受験予備校講師や中学受験指導経験豊富なプロ講師が難関大学突破水準を目指し、12年間をかけて、子ども自身に読ませ、書かせ、考えさせることを徹底するという本来そうあるべき方法で丁寧に指導し結果的に高水準の学力をつけていくことを目指します。

    ■「自分からなかなか始められず、始めても続かない」「親や教師が常に横についていないと、まともに前も向いていられない」といういまどきの手のかかる子ではなく、長期間をかけ、集中力、継続力をつけ、自発的に学習できる子に育てていきます。

    ■設置講座:新小1、2、5、6、中1、3高2。小6年英語。

    ■ベテランプロ講師による医学部東大京大など難関大学、超難関中学受験個人指導、少数限定募集。

    ****************

     高の原駅近くに寺子屋形式の教室を開きます。
     子どもたちが杉の床に座り無垢の一枚板に向かって,たのしみながら,のびのびと学ぶ教室です。

     大学,中学受験のベテランプロ講師が,進学中学高校によらず,東大京大国立医学部など難関大学を目標に,小学1年生から高校3年までの12年間を一貫指導します。

     小手先の受験テクニックの暗記ではなく,長期的視点で「読む」「書く」「聞く」「考える」の基本から丁寧に習得することで,余裕をもって受験も突破するという本来そうあるべき形で学習を進めていきます。

    ※詳しくはお問い合わせください。


    ****************
    石橋英樹 〔「数理」担当〕
    :専門 受験数学,物理学

    大学時代から20年以上を京都で過ごしてきました。

    大学での専攻は天文学。
    科学全般,思想,文学,文化人類学,社会学、映画論など,多くの分野に関心があります。

    超難関大学受験指導経験が20年以上あり、特に京大や国公立私立医学部には多数の生徒を送り込んできました。

    大人数相手の講義から個別指導まで各形式での指導経験豊富。
    大学受験生はもちろん,大学生,社会人,外国人留学生まで様々な指導経験があります。

    京大トップの学生から,全くの0の学力の学生まで,あらゆるレベルの生徒への指導経験多数。

    妻および小学制の娘、息子と暮らしています。

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