01
    1
    2
    3
    4
    5
    6
    7
    8
    9
    14
    16
    17
    19
    21
    23
    25
    27
    29
    30
       

    スポンサーサイト

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。

    大学を志望するということ

     教室の準備が次々とすすんでいます。近いうちには本棚も長い木の板とレンガで手作りをします。表札も生徒たちを含む自分たちで彫って作成する予定で,その他いろいろな企画もあれこれと予定しています。

     木の薫りはまだまだ部屋の中に満ちています。南向きの窓から差し込む陽光のためか,この時期でも部屋の中はあたたかで,暖房をつけなくても快適に過ごせるくらいです。床の木自体が熱をたくわえるのでしょうか。

     先日,二人の幼い子どもをこの部屋に少しだけ連れてきたのですが,来るなりにすっかり気に入った様子で,しまいにはここに引っ越そうとさえ言っていました。足の裏に触れる感触が心地よかったのでしょう。

     落ち着いて学習のできる空間をつくるために,あとひと月,さらにしつらえていきます。

    090127_1359~0001

     さて,前回,「知っている」と表明することを巡る会話について述べてきました。実質的な意味があるかどうかは別として,人と人とは会話をかわすことができるわけです。

     実は,将来や大学を「志望する」という言葉および会話にもそれに類した構造があります。

     ある時期になると,教師は生徒に対し,将来や大学についてのまずは志望を早く決めなくてはならないといったことを迫ります。それを受けて,生徒も早く決めるべきなんだと,自らを追い詰め,さまざまな「志望」を返答し,それで会話としては成立です。つまりそこに「志望」が出現したのです。

     それを教師は指導簿に記載するわけですが,その時点で「志望」はすべて一覧になって等価を装ってしまう。
     しかし志望の意味するところを詰めて問わないままに表明された「志望」と本来の志望が同じ重さをもつわけがないのです。

     生徒たちの中にはその「志望」のために日々を必死に送る者も出てくる。なぜなら,それこそが自分の志望だから。日々をそのために努力しているから,それが志望なのです。
     他人にきかれたときには,それを志望だとこたえることで,その「志望」は強化されていきます。

     もちろん,まったく身が入らない生徒もたくさんいます。しかし彼らも「志望」に対して努力が足りない自分にどこか引け目を感じているように見えます。
     
     しかし考えてみれば,さしたる根拠も検討もなしに表明した「志望」ならば,そのために長いハードな努力を続けられる方が,むしろ不思議だとはいえないでしょうか。
     
     そのような構造に支えられた「志望」の脆さが露呈するのは,どういう場面でしょうか。それはもちろん,「危機」に直面したときです。センター試験後のまさしくいまがそのときです。
     自分の表明してきた「志望」の実質がどのようなものであるかが,まさしくこの場面で問われるのです。

     逆にその意味で言えば,それは同時にチャンスでもあると思います。
     わたしは多くの生徒に対して,この時をあえて待ちます。人は実際に直面しなくては理解できないこともありますし,適切な時に適切な対処をすれば,人は一段成長するからです。

     まさに今年もそのような光景が現在進行形で見られています。

     センター試験後にひとりの生徒がおどおどとした態度で顔青ざめて相談にきました。彼はある難関大学をずっと志望してきたのですが,センター試験の結果が芳しくなく出願校を下げると言い出したのです。きいてみると,数値判定では合格可能性は半分ないくらいのところでしたが,浪人の危険は絶対に避けたいので,可能性の少しでも高いところを受けようかと思うと言うのです。

     浪人をしたくないというが,何か特別な事情か,親が絶対にやめてくれと言っているのかと問うと,別にそんなことはないが,自分が耐えられないと思うからだとこたえます。
     わたしは彼の手元をみて指導をしてきましたので,彼の潜在能力やこれからの伸びを予想できます。これが機械的数値的判定にはできない,長い経験による判断です。 

     わたしは,ともかく抽象的に悩んでいても仕方ないし,その不安感のまま抽象的に判断するのは不適当だとアドヴァイスをしました。そして,ここでこそ過去の問題を解いてみる場面だと具体的に指示を出しました。実際に出題された問題を解いてみて,その出来具合で合否の可能性を判断すべきだと。

     かれは素直にうなずいて,そして二日後にふたたび現れました。

     アドヴァイス通り過去問題をやってみたが,思った以上にかなり手応えがあって,合格点に届きそうだと彼はいいました。そして,もう迷いはなくなったので,そこに出願すると,宣言しました。

     そのときの彼はまったく別人のように変化していたのです。
     表情はぐっと引き締まり,背筋も伸びて,まっすぐわたしを見て受験すると言ったのです。

     この表情です。
     この変化なのです。


     これがあるから教えることはやめられない。


     彼はこれで一段階成長をしました。長年の経験から言って,おそらく彼は通るでしょう。今年について,万一届かなかったとしても,来年には余裕でこの日を迎えられるはずです。
     ある意味では,このような成長は試験の合否よりも,生きていく上ではより重要なことだと思います。
     彼はこのチャンスを十分に生かしたのです。

     このような出来事は,「志望」ということへの構え方についてのヒントにもなります。上滑りな「志望」が,危機に直面して脆くも崩壊してしまったとき,どうせこんなものはいい加減なものなんだからと,単純に反転して,あっさり数値判定に従って,変更をしてしまう姿はたくさん見られます。

     しかし,いい加減さがわかってしまったときに,我々にはもうひとつの選択がある。

     それは,改めて自分自身でそれを選び直す,志望し直すという道です。
     そうして得られた志望ならば,これからも直面するであろう危機においても簡単には揺らぐことはないでしょう。 

     このような構え方は,志望についてに限らず,他の場面においてもヒントになるはずです。

     しかし今日は長くなりすぎました。


     さて,この木の床の教室においても,数年後に子どもたちがこのような成長を見せてくれることでしょう。それを愉しみにしながら,明日からも迎える準備をしていきます。



    数理言語教室 ば

    H.I.


    スポンサーサイト

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    大学を「志望」するということ

     国公立大学受験生にとって,いまのこの時期はきわめて重要です。

     単に受験という意味においてだけではありません。ここで初めて,自分の志望の実質が問われるからです。
      
     国公立大学の場合,センター試験が終わると,その点をもとに2次試験の出願大学を決めて,実際に出願をするわけですがその期限が来週の半ばです。
     目標としていた点数を順調に取れた受験生は,当初予定通りの大学に提出をすればいいわけですが,問題はそれに足りなかった場合です。

     彼らは選択を迫られます。元々の志望を貫くか,それとも変更をするのか。
    わたしはこの場面でほんとうに数多くの生徒たちの相談を受けてきました。わたしのアドヴァイスは基本的には決まっています。

     まずは成績の客観的な情勢を分析し,伝え,その上で彼らに選択をさせます。その際にポイントになるのは,彼らの志望の中身です。わたしはなぜ彼らがそのような志望をしたかを彼らの言葉で語らせます。

     彼ら自身,自分の言っていた志望をこれほど真剣に検討するのは,実はこのときが初めてであることが大半です。なぜなら,実はそのような志望の理由などを改めてきちんと問いただされる機会もないし,自分で問うこともほとんどないからです。

     話しているうちに改めて思いが募ってきて厳しくても挑戦することもあります。しかし別にそこに思い入れはなかったことに気づいてまったく違う大学や学部にあっさり変更をしてしまう例もかなり多い。

     結局,彼らにとっての「志望」とは何なのでしょう。


     少し迂遠な話をします。

     ずっと遠い昔の暑い日の記憶です。

     夏はとうに過ぎたというのに,その日はひどい熱射の一日でした。空気はゆだって,路面から昇り上がっており,その中をわたしは長く長く歩いてようやく田舎のバス停小屋にたどりついて腰をかけました。どこの場所であったかも,どうしてそこにいたのかも記憶はあいまいですが,潮の香りはたしかにしていました。もう夕刻なのにともかくただひたすら暑く,わたしは疲労困憊でバスを待っていたのです。

     そのときに,人が駈けてくる音がきこえ,そのままバス停の裏側の日陰のような場所に腰掛ける気配がしました。そして二人の子どもたちのとりとめのない会話がはじまりました。

     わたしにはその声たちも,時折通り過ぎる車の音や,残暑の空気のゆらめきの中にあいまいに吸収されて,細かい内容はほとんど届きませんでした。

     あるとき,会話が一瞬途切れます。その他の音も不思議にやんでしまった瞬間でした。ひとりの子が尋ねます。死体を見たことはあるか,と。もうひとりの子は,いやないよ,とこたえます。そして,じゃあおまえは見たことはあるのかと問い返す。最初の子はこたえました。いや,ない。けど,見たことがある友達を知っているよ。

     記憶はそれだけです。たったそれだけの,壁越しにきこえた会話の断片の記憶なのに,あの空気のゆだった生ぬるい感触とともにその後ずっと残り続けていました。

     そのときの違和感の正体は一体なんなのか。

     「知っている」という言葉がひとつの鍵になると思います。


     我々は「知っている」という言葉を実に頻繁に使います。私は父と母を知っている。私は学校の隣の席の誰々ちゃんを知っている。私は数学の先生を知っている。私はあの歌手を「知っている」。私は今の総理大臣を「知っている」。私は過去の作家の誰々を「知っている」。そして自分自身を「知っている」・・・

     我々は知っているのでしょうか。それともほんとうは知ってはいないのか。

     もちろん,「知っている」という中身の定義がなければ,この種の議論をするのはナンセンスです。
     そしてもちろん,一部のマニアックな職業の人を除いては,そんな定義の議論なんてするわけがない。

     たとえばあなたは朝永振一郎を知っているか。アルベール・カミュなら知っているのか。では草野進ならどうなのか。・・・

     なぜ何も迷うことなく,その定義もろくに検討することもなく,我々は「知って」いたり「知らなかった」りということを瞬時に表明できるのか。じつはそれは結構不思議なことなのです。

     そして,その程度の「根拠」で,知っていたり知らなかったりすることを互いに表明しあう会話というものはどの程度の意味があるのか。当然,さしたる意味はないのでしょう。しかし会話が成立しているか否かでいえば,会話はたしかに成立しているのです。

     ここにねじれがあります。


     しかし時間です。
    続きはまた次に。


    数理言語教室 ば

    H.I.

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    言語力(国語力)を伸ばすために~語彙力その2

    非常に寒い中、入試戦線が続いています。
    前回の続きを書きます。

    前回、

    a.有機

    b.抽象

    c.主体

    と、例を挙げて、これらの単語の「イメージ」ができるかどうか・・・が、語彙の力があるかどうかの判断基準になるという話をしました。

    ここで「イメージ」というのが1つのポイントです。「意味」ではなくて他の関連することばと連動させて「イメージ」するのです。

    b.抽象 を例にとります。

    辞書で引くと「抽象」の意味は、
    具体的な事物または表象からある共通する要素・側面・性質をぬきだして概念化すること。⇔具象/具体。→捨象
    となっています。

    これを単独で丸暗記しても実際に使える知識になるわけがないし、すぐに忘れるにきまっています。
    だから、関連するいろんな言葉を組み合わせて「イメージ」するのです。

    まず、「抽象」の反対語は「具体」です。

    「具体」というのは、辞書を引くと、
    物事が、直接に知覚され認識されうる形や内容を備えていること。
    となっています。

    すなわち、「『これです!』と指し示すことができるもの」のことをいいます。これはイメージしやすいです。
    例えば、「サッカー」って何ですか?と聞かれたときに、丁度サッカーのテレビ中継をやっていたら、「はい!これです。」と、画面を指し示せばいいわけです。これが「具体」ですし、説明の仕方としては「具体的な説明」になります。
    ただ、サッカー以外のスポーツを説明するときに、サッカー中継の画面を指差すわけにはいきませんから、この説明の仕方は、「サッカー」の時しか使ええない方法です。だから、「具体」という言葉は、「特殊」とか「個別」ということばと非常に親近性があります。

    では、「抽象」はどうでしょう。
    もう一度、辞書的意味を見てみましょう。

    抽象・・・具体的な事物または表象からある共通する要素・側面・性質をぬきだして概念化すること。。⇔具象/具体。→捨象

    となっています。
    適当にスポーツの種目を挙げてみます。「サッカー」「バスケットボール」「アメフト」「ボクシング」・・・これらは「具体」です。これらから共通する要素をぬきだせば「抽象」になるのです。
    これらのスポーツに共通する要素は「時間制限のあるスポーツ」という点です。ボクシングは3分1ラウンド、サッカーは45分ハーフ・・・というぐあいです。

    だから、これらのスポーツを抽象的に説明するとすれば、それは「時間制限のあるスポーツ」となります。また、「スポーツ」、あるいは「体を動かすこと」というのも可能です。だんだんくくる幅が大きくなってきました。これのことを「抽象度を上げる」といいます。

    ところで、これらのスポーツに共通しない部分はどうなるのでしょう。例えば、「ゴールネット」「ボール」「グローブ」・・・。これらはみんなゴミ箱行きです。ゴミ箱に捨てることを「捨象」といいます。

    ちなみに「捨象」を辞書で引くと
    具体的な事物または表象からある要素・側面・性質を抽象するとき、他の要素・側面・性質を度外視すること。→抽象

    となっています。辞書的意味だけではわかりにくいですが、「具体」「抽象」とセットにすると、「捨象」のイメージも見えてくるはずです。

    話を元に戻しましょう。「抽象」の続きです。

    抽象・・・具体的な事物または表象からある共通する要素・側面・性質をぬきだして概念化すること。。⇔具象/具体。→捨象

    具体的なものから共通する要素をぬきだすと「抽象」になりました。
    「サッカー」「バスケットボール」「アメフト」「ボクシング」・・・から共通する要素をぬきだすと、「時間制限のあるスポーツ」となった。これが「抽象」です。
    共通するものをぬきだしているわけですから、「抽象」は、「一般」や「普遍」といったことばと親近性があります。

    ここで、この抽象化された「時間制限のあるスポーツ」というのは、実はこの世にはありません。
    「ええ?何を言ってるんだ、たとえば、サッカーとかバスケとかがあるじゃないか!」と反論する人もいますが、それではだめです。なぜなら、それはもうすでに「具体的な説明」であり「具体」を言い表しているにすぎないからです。
    すなわち、そのような意味で、「抽象化されたもの~時間制限のあるスポーツ」というのはこの世には存在しない、と言っているのです。

    従って「抽象」は、この世にはないもののことですから「概念」とか「観念」という言葉と親近性を持ちます。ちなみに「観念」「概念」とは、大まかに言うと、「人間の頭の中だけの考え、あるいは意味内容」のことをいいます。

    「具体」「個別」「特殊」「捨象」「抽象」「一般」「普遍」「観念」「概念」。
    9つのことばの「イメージ」ができたはずです。
    各々のことばの間でそれこそ「有機的」にイメージが関連すれば、語彙力も上がるし、文章の理解も深まるのです。

    なんだか授業みたいになってきましたからこのへんで。


    数理言語教室 ば

    K.M

    theme : 勉強法
    genre : 学校・教育

    言語力(国語力)を伸ばすために~語彙力

    久しぶりのブログ投稿になります。

    中学入試は終盤となりましたが、これからは高校入試、私立大学入試、そして国公立大学の二次試験へと戦線が移っていきます。教え子たちの成果を祈る毎日が続きます。

    さて、以前の投稿で「国語力の低下」について書いたのですが、今回はそれをさらに突っ込んでみたいと思います。

    「国語力」というのは厳密にいうと4つの力に分かれます。
    それは、「語彙力」「読解力」「解答力」「創造力」です。
    この4つの能力のどれかが落ち込んでいる状況を「国語が苦手」と巷では呼んでいます。
    今日は「語彙力」について書きます。

    英語の単語を知らないと英語の長文が読めないのと同じように、「国語」においても最低限の単語の知識が必要です。この力が落ち込んでいると、テストによって「できたりできなかったり」の状態が起こります。

    高校生が持ってくる現代文の相談の8割以上を占める「評論(論説文)の得点の上下動が激しい(いい時は満点近く取れるのだが、悪い時は2問程度しか合わない)。どうすれば高いレベルで得点を安定させられるのか」という質問に対する答えがここにあります。
    毎回のテストで本文の読み方を変える生徒などまずいませんから、語彙力が大きな要因となっていることを、私は生徒にいつも指摘します。

    ここでポイント整理をします。

    1、小説は得点がある程度安定しているが、評論になると得点が一気に落ちることが多い。

    小説は比較的平易な文章が多いが、評論は難しい単語が頻繁に出てくるからという理由付けが容易にできます。

    2、高校生以上の生徒がこの相談を持ってくる。

    わたしは最難関校をターゲットにした中学受験の指導も行っていますが、小学生(その親も含めて)はこの類の相談をまずしません。以前行っていた最難関高校受験の指導においても同様です。すなわち得点の上下動は、語彙レベルが一気に難化する大学入試の現代文で主に起こる現象なのです。
    中学生までの段階で目にする文章と、高校生になってから触れる文章ではその論理性という点もさることながら、語彙レベルが一気に上がるという点が特徴的です。
    ただ、生徒は英単語や英熟語は一生懸命意識的に覚えようとしますが、現代文の語彙数を増やそうとはしない。結果、前後の文脈から適当にそのことばの意味を捏造し、違う意味に文章をとってしまうのです。成績が安定しないのは当たり前です。

    例を挙げます。

    a.有機

    b.抽象

    c.主体

    これらは大学入試レベルとしては基本単語の部類に入るのですが、これらの意味を正確に「イメージ」できる生徒は驚くほど少ないのです。逆に、これらの「イメージ」が正確にできる子たちに「評論が苦手で・・・」という生徒はあまりいません。

    講義の時間がきてしまいました。続きは次回に。


    数理言語教室 ば

    K.M

    theme : 勉強法
    genre : 学校・教育

    しゃべらない子どもたち

     息子や娘が突然しゃべらなくなったんです。

     高校生や中学生を担当していると,保護者からこういう相談がよくあります。ほとんどは母親からのもので,息子についてのケースが多い。
     それまでは,学校から帰ってきたら,今日一日起きた出来事をあれもこれもと事細かく報告し,自分の体験を親といわば共有してきた子どもが,あるときを境に,ほとんど報告をしなくなる。それどころか,呼んでも振り向きもしなくなるし,たまの返事もあいまいな最短の単語だけになってしまう。

     これが始まると,親には子どもの学校生活が見えなくなるので,急に不安になります。本人との直接の会話では状況がつかめなくなってしまうので,わたしたちが色々な様子をかわりに報告したりもするのです。
     わたしたちは,このような相談を受けると,逆に少し安心をします。どの子どもたちも成長の過程で通らなくてはならない,親からの自立へ向けた第一歩であると見なすからです。家庭ではほとんど言葉を発しなくなった子どもでも,教室では活発にあれこれしゃべっていることも多いのです。

     これがこれまでの一般的認識でした。

     しかしどうも近頃,異なると思えるケースもしばしば見られるようになってきました。

     先日のことです。某予備校の有名どころの講師と,たまたま質問が途切れた時に,講師室であれこれ世間話をしていたときがありました。

     そのときに,ひとりの生徒が質問に入ってきたのです。わたしたちは話を中断しました。彼は先ほどの講義を書き写したと思われるノートをもってきて,講師の前に広げます。講師は,それを見て,さっきのやつやな。どれがわからない?これか,それともこれ?といくつか列挙します。いくつめかの,これか?に,彼がうなずくと,その講師はそれについて,改めて説明を早口で行います。途中彼がちょっと首をひねる場面があると,とっさにそこについて更に丁寧な説明を加えます。
     そうしてひととおり終えたあと,彼にわかった?と確認をすると,彼はうなずき,講師室を出て行きました。見事なさばき方です。
     
     今の彼,結局,一言も発しませんでしたね,とわたしが驚くと,ああいけないいけないと,その講師は反省を始めました。こういうようにしてはいけないとはわかっているんだけど,大勢を短時間でこなすにはこのようなやり方しかないと,嘆息をしていました。
     わたしの意図は,その名人芸の域のさばき方への感心と,その生徒のかたくなさへの驚きの表明だったし,付き合いも長いのでそのことはわかってもらえてはいるのですが,それとは別にほんとうに反省している様子です。この人は良心的な性質なので,こうなるのでしょう。

     しかしこのような対処になってしまうのは,この種の生徒に対しては,事実上やむを得ないところがあります。
     彼のペースにあわせていると,まず彼の最初の一言目の発声まで延々待たされることになる。その後の,二言目も同様な長間隔になることは間違いありません。しかも彼らはほんとうに必要最小限の発声しかしませんから,要領をえないやりとりを幾度もかわさなくてはなりません。後ろに並んでいる他の生徒たちのことを考えると,とてもそこまで時間をかけることはできない。したがってそのような対処になってしまうのです。

     こういう生徒は特定の一人や二人ではありません。程度をもう少し広げれば,このようなタイプの生徒は実はかなりいます。質問にくることができる生徒は,まだ「まし」な部類です。
     こういう生徒の対処を繰り返していると,我々も鍛えられて,結果的に「名人芸」になるわけです。
     
     彼らは家庭で親とは会話をしなくなるということとは別の水準で,「言葉を失った」子どもたちだと思います。
     しかも一般的に口べたの多いと思われる男子だけではなく,女子も確実に増えているように感じます。

     彼らはこのような状態で,これまでどのようしてやってこられたのか。まず考えられるのは,これまで他人とのやり取りを必要とする場面では,その実際を親がほとんど代行していたのではないかということです。これはたしかに大きな原因でしょう。
     記憶をたどってみれば,授業中にあまり当てないでくれという依頼が,本人ではなく,親から電話でくるようになったのは,90年代の半ばをすぎたあたりからで,そんなに古いことではありません。

     ただ,最近の親のしつけのせいだと断定して終わり,では済まない何かがあるような気がしてしょうがない。そしてこれからもこのような子ども(および大人)が増えていくという予感もしてしまう。
     これもゆくゆくはもうすこし詳細に検討をしてみたいと思います。

     いずれにせよ,彼らは社会でどのように過ごしていくのかが心配になります。社会では誰もこのように彼のためにすばやく選択肢をあげてくれたりはしないはずですから。そして彼の発声をじっくり待ってくれたりはますますしないでしょうから。

     ただこのように言葉を失ったと見なされるような子ども,というより青年たちと,わたしは時間をかけてじっくり接したこともあります。
     実は彼らのペースで話をさせると,それはそれでたいへん興味深い内面世界をもっていたりすることもあります。ユーモアのセンスに富んでいたりすることも多い。
     そのあたりも,機会があれば,またいつか紹介をします。
     

    数理言語教室 ば
    H.I.
     

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    水たまり

     いよいよ内装の工事も一通り終わりました。これから備品を順次搬入していくことになります。

     机もひとつずつ運び込まれてくることになります。先日,ほぼ完成した大きな無垢板の机に触れたのですが,なんともいえない心地よさがありました。その机の作業を手伝っている当教室に入る予定の小学生は思わずほおずりをしていました。その気持ちは良くわかります。スチール机に対してはこのような気持ちはなかなか起きないでしょう。

     こういう具体的な「肌触り」というのは,とても大切なことだと思います。こういう肌触りの中でなら人は「荒れた」心情にはなりにくいのではないでしょうか。わたしたちの「ば」にふさわしい,白いやわらかい木肌だと感じました。
     
     そういえば,ずいぶん昔のわたし自身も子どものころに読んで,印象に残った言葉があります。

     「子ども達が水たまりを避けて通れない理由を,いつか科学が解明してくれる日がくるのだろうか。」

     何で読んだかは記憶にないのですが,子どもたちのやまれぬ衝動を鮮やかにスケッチしている言葉だと感じます。科学に対する揶揄の含まれ具合の加減も良く,それで記憶に残ったのだと思います。

     人にとって肌触り,触感,衝動なども含まれる,広い言い方をすれば「生理」感覚というのは重要です。青年期の苦悩の半分以上は,自分のこの「生理」との折り合いをつけるための苦闘に起因するといっても大げさではないように思います。自分の「身体」が自分自身の思うようにならない感覚,もどかしさというのは,実はけっこう多くの人が体験したことがあるのではないでしょうか。
     これは突っ込んで検討していくと,とても興味深い論点が次々とでてきますが,これもまたいつか。

     いずれにせよ,「疾風怒濤」の時期をすごしていく場として,このような木のぬくもりとやわらかさは,きっと支えのひとつなることでしょう。そのあたりの光景は始まったあとに,また実況中継をしていきたいと思います。

     さて明日から徐々に子どもたちを迎える場の準備をしていかないと。


    数理言語教室 ば
    H.I.

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    親の思い

     今日は3歳の娘が保育園を休みました。

     朝,わたしのところにうれしそうに近寄ってきて,おなかが痛いから,今日はやすんだと言います。だから,パパ遊ぼうと。遊ぼうって,おなかは?と問うとおなかはいたいと言い張ります。でも遊ぼうとにこにこしているのです。おなかが痛いというのはウソなのかと問うと,素直にウソだと返します。
    でもやっぱりおなかはいたいと言います。ママが見てないから,今日はチョコを食べてみようかとも。

     (ちなみにウソをつくのが可能だというのは,よく考えるととても不思議な現象です。自然法則的なきまりであれば破ることはできませんが,ウソはつくことができる。単純に人の決めた規則にすぎないからという以上の背景があると思います。人が何歳からウソをつけるのかというのも,それに関連して興味深い問題です。)
     
     さて,わたしも講義がありますから,彼女を妻に引き継ぐために送っていかなければならない。車中で,彼女は饒舌です。間をあけずにずっとひとりでしゃべり続けている。さて問題です,パパにもわかる問題です。ガソリンの仲間はなんでしょう?はい時間です。黄色でした。さて次の問題です・・・と番組の司会者になって次々と早口にまくしたてます。

     子どもをもつようになって,しみじみ実感するようになったことがあります。

     自分が生徒として受け持つようになるまでの10年や15年といった過程には,親や周囲の者たちのさまざまな‘思い’がこめられている。生まれてきてから,毎日毎日おしめをかえ,ひとつずつのことができるようになるたびに,新鮮によろこび,ともに笑い,ときには泣く,そのような日々を経て,いまの姿があるのだという,そこまでの時間の蓄積が見えるようになりました。

     同時に目の前のこのような天真爛漫な幼女たちが,わたしの知っている,傷つき,病み,目の力を失ってしまったあの青年たちになるまでの間にはいったい何が起きてしまうのか。それを強く感じるようになりました。

     原因はいくつも考えられます。たとえば家庭や親の何らかの欠如はよく挙げられる要因ですが,しかし親や家庭に欠如があってはならないとしたら,誰もが子どもを生むのにたじろいでしまうでしょう。どこに欠如のない家庭などというものがあるのか。「完璧」な親がいったいどれだけ存在するというのか。
     それはそのような強迫を利用して「商売」をしたり,「権力」を確保している人の言説の中のみにある抽象でしょう。場合によってはこの種の強迫こそが原因のひとつである可能性も考えられる。特に小学校を巡る周囲にはこの種の強迫があふれているように観察されます。
     これもいろいろな場面で,これからもふれていこうと思います。

     さて娘は,送る途中で,父の甘さにつけこんで,アイスクリームをねだりました。無心にストロベリーアイスを食べている様子はギャルそのものです。最後にはママには内緒よと付け加えることも忘れませんでした。
     これで食事がすすまずに,ママにしかられてなければ良いのですが。



    数理言語教室 ば
    H.I.

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    場のありよう 2

     昨日と今日の二日にわたって,大学入試センター試験が行われています。生徒たちはそれぞれさまざまな思いをもって,受験に臨んでいます。
     
     結局,試験会場では独りで問題に向かわなくてはなりません。教師も親も横に座ることはできないのです。そこでは誰もヒントを与えてはくれませんし,ミスも訂正はしてくれない。
     そのような条件でも,力を発揮できるように,何年もの準備を続けてくるのです。わたしたちは常にこの場面を想定しながら,この日に安心して会場に送り出せることを目指して,日々を積み重ねていくわけです。

     いまはひとりひとりが自分の持つ力を十分に発揮してくることを信じ,待つだけです。


     さて,前回の続き。
     
     2つ目の体験です。

     こちらも10年以上続いている,主に浪人生を対象にした場所でのことです。
     わたしはこれまで,同僚には恵まれてきました。実は予備校のような業界では,「稼ぎ」にきているような人物も少なくないですし,(冗談のようですが)同僚の悪口を授業中に生徒に対して言い合ったりするような予備校もあります。講師の集まりでは金儲けの話ばかりに終始するような講師を集めた学校もあります。

     一方で人格的にも尊敬できる人たちもたしかにいて,そこはそのような人格実力ともにそなえた人ばかりがそろった貴重な場所でした。そういう人たちは真面目ですから,生徒の実力を真正面から本気で伸ばしにいくようなやり方で教えていました。実際に,普通の場所ではとても相手にはされないような生徒が,力をつけて医学部に通っていったりもしていました。運営側もうちは生徒で商売はしないということを広言してやっているという珍しい場所だったのですが,この種の取り組み方は「経営」的には効率が悪いわけです。

     ある年に,そういう状況を「改善」しようと新興の教育産業と提携を試みます。次々と規模を拡大していくビジネススタイルで急成長を狙う流行りの株式会社で,その提案でクラス編成は効率の良いものに一変し,授業の半分はあちらが送り込んできた講師が受け持つという事態になるのです。
     それでもその年度の生徒は春から互いに仲も良く,常に笑い合って声をかけあっているという雰囲気でしたので,わたしたちは一安心でした。

     しかし途中で雰囲気が変わるのです。まず「いじめ」が発生します。特定の生徒に対し,無視したり,集中的に嘲ったり,授業中に悪口を書いた紙をまわしあったり,のけ者にしたりといったことが起きます。しかしわたしたちはしばらく気づきませんでした。なぜなら,そのような振る舞いは,特定の授業中におきていたからです。

     これを教えてくれたのは,古くからいる同僚でしたが,彼女も生徒からの相談で初めて知ったということでした。その後でいろいろと様子を調べると,そのようなことが起きているのは,見事なほどに新しく入ってきた先生たちの時間内のみでした。考えてみれば,少人数の授業中にたとえば紙を回し合うことを気づかないというのはよっぽどのことです。

     彼らは彼らなりに自分たちの行為にうしろめたさがあり,そのような自分の姿を見せてもいい相手と見せることにためらいを感じる相手とを無意識に分けていたものだと思われます。

     それを知った後に,わたしたちはフォローに入りますが,元々は仲の良かった生徒間にも次々と亀裂が入り最後にはお互いがほとんど口をきかない状態で一年を終えていきました。これまでの10年以上の中で初めての出来事でした。場がくずれるとはこういうことなのだと実感した一年でした。

     この年度の生徒たちが悪質だったとは,まったく思えません。きれい事ではなく,いつもの年度の生徒たちと客観的にくらべても,ひとりひとりはとても気のいい生徒でした。もっと問題を抱えた生徒はこれまでにもたくさんいたのです。しかしそのような生徒も,これまでは笑顔で卒業をしていき,今でも時折顔を見せてくれます。この年度の生徒たちも,それ以前の場で迎えてていれば,このようなことにはならなかったのは確実です。

     そもそも受験生活とはストレスがたまりやすく,発散する方法も限られてきます。大なり小なりストレスの発散はしなくてはなりません。したがって,すこし間違えばこのような発現の仕方をしてしまうのは理解できることです。その発現の具体的な仕方を決めるのは,まさに「場の質」です。

     まともな場が成立していないところではお互いの良質な関係もつくることが困難だということは,学校に限らず,会社でも地域でもそして家族でも一般的に感じることではないでしょうか。
     場が成立をしていないところでは会話も困難です。互いに言葉尻をとらえ,言質を取り合って,言った言わないを繰り返す・・・このようなことを経験した人はだれもがその不毛さを知っているでしょう。
     そのような場面の頻発が示すのは,会話の中身の妥当性ではなく,場の劣化です。

     そこで冒頭の問いを別の形でやり直します。
     『教師が授業中に不適当な発言をするのは問題か。』
    「問題」であるかどうかは,実はそれほど問題ではありません。そんなことよりも,そのようなことが「問題」となってしまう場そのもののありかたが重要なのだと思います。
     場が成立していれば,そもそもこのようなやり取りにはならないはずです。そして,そこに商売目当てのマスコミが便乗してくることにもならないでしょう。

     わたしたちのこの「ば」では,このことを十分に意識しようと思います。その意味も含めて「ば」と名付けたのです。


     さて,センター試験。皆が無事に今日の一日を乗り切ってきてくれると良いのですが。


    数理言語教室 ば
    H.I.
     
     
     
      

     

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    場のありよう

    新聞報道で,学校教師の授業中の問題発言が取り上げられるようになったのはいつごろからでしょうか。おそらくいまのような文脈(形式)で,問題視されるようになったのは,それほど古くからのことではないと思います。

     片言隻句を取り上げて,そこだけを新聞報道すれば,「立派」な記事となり,読者もそれはひどいと憤慨をする。すなわち,それで「商売」が成り立ってしまうわけです。

     不思議なことに,この種の報道は,テレビではそれほど取り上げられません。新聞は真実を報道し,テレビではそれほどでもないということは,もちろんありえません。単にテレビ報道はもっと別の種類の映像的な要素が必要だからということだと思います。要するに,「商売」になりにくいのでしょう。
     
     「片言隻句」をまず取り上げて,前後の文脈抜きに報道し,それで喚起した世論を材料にして,逆に発言者を締め上げていくという,この構造的には簡単な手法は,政治家への報道でよく使われて,われわれにもなじみのものです。

     そのような政治家の発言を読んで,「だから日本の政治はダメなのだ」と人々は茶の間や職場で言い合うことによって,一種のカタルシスを得る。マスコミとしてはそれで「商売」になるわけです。この場合は映像もあることが多いので,テレビでもよくやります。
     この種の「商売道具」として使われるのに,政治家は適当な対象なのでしょう。
     (なおかつ,この構造を十分に認識していて,それを追い落としの手法として,効果的に用いている人々もいるのでしょう。)

     しかしこのような手法を教師や教育現場に安易に適用すべきでしょうか。

    これについて考えるとき,わたしには思い出される体験が2つあります。

    ある所で,現役中学高校生を教えていたときです。わたしはその集団の特徴を端的に示すのは,そこのリーダーに対して,社員や講師が裏でどのように言い合っているかということだと考えていますが,その場所ではリーダーの評判が良いとは言えなかった。

    わたしは,非常に優秀で人格的にも生徒たちから愛されている英語の先生と二人で組んで,主にまわしていました。そこは教室としては分館で離れてやっていたこともあり,業務発想の「管理」が行き届かず,事実上「治外法権」のような独自領域となっていました。それもあってか,生徒達は自分のホームのようにのびのびと明るく過ごしていました。

    あるとき,本館の教室の不足という事情で,こちらでも本館側と混成で出入りがあるようになりました。それはもちろん,構いません。しかしそれからしばらくして金銭の盗難が発生するのです。英語の先生の財布から現金が一度だけでなく,数度もなくなるということが起きるのです。授業中は不在になる講師室に置き去りにされたカバンの中の財布でした。

    もちろん,これを「問題視」して取り上げた場合,非はすべてこの先生にあります。鍵もついてない場所に財布を放置するのは,その人のセキュリティに対しての認識が甘いからに過ぎないし,同情の余地はない。新聞記事的にまとめれば,そのようになるでしょう。事実,表沙汰にはなりませんでした。

    ただそれまでの10年以上を同様な「セキュリティ意識」で過ごしてきて,その種の話は一度もなかったのです。逆にそれこそが貴重なことであったのだとそのときに実感しました。おそらく互いに対し,そのような抜き取りを起こすような発想そのものが起きない,思いも付かないという場だったのだと思い,印象に残ったのです。

    この話しには続きがあります。義務ではありますから,一応,このような話しも上には報告します。もちろん,恥ずかしながらという文脈だったと思います。その結果,どうなったかといえば,監視カメラが付いたのです。各教室と,廊下と。
    それから数年して,この場は閉鎖になります。

    つづきは,また明日以降に。

    数理言語教室 ば
    H.I.

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

    いよいよ

    いよいよ、「ば」開講に向けて、カウントダウンが始まりました。
    たくさんの方々の支えを受けて、準備が進んでいます。
    わたしも今日が初のblog投稿になります。よろしくお願いいたします。

    いよいよといえば、今週末、1月17日・18日は大学入試センター試験です。
    先ほどまでわたしも講義を行っていたのですが、直前期独特の生徒達の緊張感が、教卓越しに痺れるように伝わってきます。わたしも身の引き締まる思いです。

    ところで、高校生の現代文(国語)に関する相談として、ここ数年来、特に増えてきたものがあります。

    それは
    「現代文(国語)の勉強について、何をしていいのかわからない。」
    「問題集や参考書で勉強はしているのだが、全く点数に結びつかないので困っている。」
    というものです。

    生徒たちは、日本語を使って会話し、そして小学1年生時から「国語」の勉強を10年以上しているにもかかわらずです。他科目では、まずこういった相談はないでしょう。相談の内容も漠然としすぎています。

    生徒達の国語力は、年々低下していると言われています。わたしもそれを現場で実感しています。
    さてそれをどうするのか。このあたりから、時折脱線しつつ、blog投稿をはじめたいと思います。


    K.M.

     
    「数理言語教室 ば」

    theme : 勉強法
    genre : 学校・教育

    親にとっての不安

     親にとって,結局,子どもたちの教育という点で最も不安に思うことはなんでしょう。

     教育ということを離れれば,もちろん健康に育っていってくれることや,素直な子になってくれることなど,たくさんの優先することがあると思います。

      しかし,それは別として,親として子どもに教育が必要だと思うのはなぜなのか。
     一般的には,将来,「良い」大学に行かせて「良い」職業につかせ,「良い」暮らしをさせるため,といった答えが予想されますが,おそらくそれはあまりに抽象的な言葉すぎて,そんなことをほんとうに求めている親が実際にそんなにいるとは思えません。

     そんな抽象的なことではなく,親にとって切実なのは,この子が将来,自分で独り立ちをして自分たちがいなくなった後も無事に暮らしていけるのか。
     もっと,有り体に言えば,それまでの間に,「道」を外れてしまったり,周囲の皆からのいじめにあったり,外の世界に出て行けなくなってしまったりしないかというようなリアルな不安なのではないでしょうか。

     良い暮らしや,良い稼ぎなどの抽象的な将来の前に,まずはそもそもそこまで無事にたどりつけるのか。その「恐怖」に衝き動かされている親御さんが実は多いのではないでしょうか。

     でなくては,あれほどのお受験競争にはならないと思います。

     もちろん,有名学校に進学したからといって,そのようなリスクがなくなるわけではありません。しかしその種のリスクを少しでも減らせるなら,子どものためにそういう環境を用意してあげたい。そのための手段として,教育を要望するといったところが,本音なのではないでしょうか。

     わたし自身も,幼い子どもを二人もつ立場となったいま,その不安感は良くわかります。様々な子どもたちを具体的に知っている分,その不安感はむしろ大きいかも知れません。

     ただ有名学校進学が,やはり解決策ではないと思います。そういう例もやはりたくさん経験上,知っているからです。

     全国的にも名前を知られている,ある有名進学校の生徒たちはすいぶんたくさん見てきましたが,(なかなか難しいですが,)自分の子どもがもしもそこに行けるようになったとしても,わたしなら勧めません。病の一歩手前や実際に精神的な傷を負った生徒達を幾人も知っているからです。順調に過ごしていっているような生徒もどこか歪みがみられることが多かった。

     たとえば,勉強をするにしても自ら進んで強制管理を望み,それに対してほとんど疑問をもたず従うような性質に見事にされてしまっていました。
     (ちなみにそこの生徒たちが進学をしていった,ある有名大学の内部の人の話をきいたことがありますが,その学校の出身者は大学に入ってから伸びないことで知られていたそうです。もちろん,確証はありませんが。)


     ではどうするか。これが難しい。

     わたしたちはその方面には詳しい,講師業のベテランですが,実際に自分の子どもならどうするかと言われると,実態に詳しい分だけ余計に答えに窮します。
     同僚などを見ていると,結局は,一般の親御さんたちと同様に,できるだけいい学校に入れて・・・という選択をしていることが多いように見えます。

     つまり,他の選択肢がないのです。

     自分の子どもだけの特別な方法があって,単なる客としての生徒には教えないことにしてるような,そんな悪質な教師は見たことはありません。皆,それぞれに目の前の各生徒の将来のことをやはり懸命に考えてはいる。その結果,やはり一番無難なのは,有名校に進学させることだと思えるから,それに頑張って取り組んでいるのです。

     わたしはずっとこの問題のねじれ方を含めた構造を考えてきました。

     おそらく,選択肢は本来の要求や希望(子ども達の独り立ち)とは異なる平面(有名校進学)で示されているのに,現段階ではそれしかないから,それを答えと思い込んでしまっている(もしくは思い込むしかない)ということだと考えます。

     これは一連の食品偽装問題のときの考え方の構造と似ています。中国産品の問題が起きていたのは日本の食品偽装と同時期でした。この場合,あちらもこちらも信じられないから,どちらも食べられないというのが,「論理的」に考えれば,正しい答えですが,我々は食べていかないわけにはいかない。 その結果どうなったかと言えば,スーパーからは中国産品のみが減らされ,人々は日本製かどうかを重視して選んだ。日本製品の偽装が連日報道されているまさにそのときにです。

     もちろん,この背景には複雑な事情が存在していることはわかります。しかしそれと同程度の複雑な背景は有名校進学熱にもあるはずです。

     結局は,有名校進学はストライクゾーン(独り立ちという目標)からは,外れている球(解決策)であるはずなのに,皆が気づかないふりでそれを投げ続けているのではないかということです。

     もちろん,世間的には「失敗」と見なされるような例は外部になかなか漏れにくいし,宣伝もされないというのも大きいでしょうが。(ちなみに,わたしはこのような管理的な学校になじまない生徒の方がむしろ自然だと思っていましたし,そのように本人にも常に伝えていました。)

     ここまでは単なる(簡易な)分析に過ぎません。

     相変わらず,残るのは,ではどうすればいいのかということです。

     その結果,選択肢がないならばその選択肢を自分たちでなんとか作ってみようと考えたのです。
     独り立ちが本来の目標なら,自立した力をつけさせることを第一義にしようと思いました。
     ただし,抽象的な目標ではなく,難関大学という具体的な目標をおきます。

     有名校進学のみが第一目標ならば,どういう方法であってもその試験を突破できればいいわけです。それがいままでの「ねじれ」の実態です。

     しかし,わたしたちは,そちらではなくて,その本人そのものに自立した力をつけさせる方を優先しようと思います。そのように目標の設定を変えることによって,たとえ,まったく同一の教材を使っていても,まったく同じメンバーで教えるとしても,そこの向き合い方は変わるはずだと思います。

     その結果として,有名中学や高校を志望しても良いし,受かってしまっても良い。可能ならば,そのままサポートは続けます。いずれにせよ,自立した学習や思考や行動のできることに長期間を努めて,結果的に難関大学入試でも対応できるようになることを目指します。

     陰湿なイジメや場のありかたとの関わりについては,またこの次の機会に。

    H.I

    「数理言語教室 ば」

    theme : 子育て・教育
    genre : 学校・教育

     今日も工事が続き,杉板の床は着々とできていっているようです。

     わたしは某大手の場所で,中高一貫の生徒を主に中学3年生から育てて,大学まで送るということを10学年分くらいしてきた経験もあります。これはいろいろな特殊事情があったとはいえ,わたしの年齢では珍しいことだと思います。

     青年期の4,5年間というのは,とても長い期間です。その間に何の動揺も迷いもなく,機械のように勉強だけ続けるなどということはありえないし,良いことでもありません。
    青年は喜び,怒り,泣くべきです。悩み,惑い,不安を感じるべきなのです。

     ただそういう時には,こちらも連動して一緒に舞い上がるのではなく,大きく構え,彼らのその貴重な経験をしている姿を長い目で見て,支えるようにとわたしは心がけました。

     そして学習という意味での成長も,同じペースで,時間に比例してということはありえないと考えていました。
     したがって,日々の具体的な学習をさせながら,無理に成長促進をするようなことはせず,ともかく辛抱強く待ちました。ともかく丁寧に書かせ,自分で考えさせることを続けさせて,最初の数年を過ごさせたのです。いわば化学的成長促進剤などは使わず,丁寧に水やりをし,土を肥えさせ,光を当てるということを続けて成長を待ったのです。

     生徒達は最初はなかなか手こずります。
     そういう時には必要な助言は適宜与えますが,べったりと助け続けることはしません。そういうことを粘り強く続けていると,早い生徒だと高校2年生の後半くらいで突如見事な「花」が咲きます。教えたことができるようになるだけではなく,なんと教えていないことまでできるようになってしまうのです。
     そのときの感動は,これを経験した教師でなくては,なかなかわかってはいただけないのではないかと思います。

     こういう経験を何度もすると,結局,生徒たちというのは,教えたからできるようになるわけではなく,自らできるように成長していくのだという確信をもてるようになってきます。
     (これについては,また別に機会があれば,もう少し突っ込んで分析をしたいと思います。誰もが内部には無限の才能をもっているという類の話ではありません。)

     特に飛び抜けて優れた生徒には,ともかく教えすぎないようにしました。最低限のアドバイスや手助けだけをして,できるだけわたしの枠にはめることをしないように注意したのです。
     こういう生徒は基本的にはほうっておいても成長をします。極端に言えば,成長を邪魔しようと努めてもそれを振り切って成長してしまうことさえあるのです。
     今では世界的に名前を知られている生徒もいますが,彼らには実質何も教える必要はありませんでした。わたしに役割があったとすれば,彼らにも型にはまるようにと要求をしてくる学校や人物がいたときに,別にそういう必要はなく,キミはその方向でそのまま成長ができると彼らの側についてやることくらいでした。
     
     もちろん成長の遅い生徒もいましたし,「花」もそれぞれ個性的ではあります。ただいずれにせよ,強制的に咲かせたのではない,粘り強い作業をへたのちの成長は,良い土に根を張り育った茎から咲いた「花」のように,いびつにもならず,それぞれ社会の中で場所をみつけていくと思います。

     わたしたちの,この「ば」では,今度は小学生からです。
     花や茎の前の,芽吹きの時点までもどって始めるということなのだと思います。できるだけ良い土作りをし,まずはしっかりとした根を張らせることからしなくてはなりません。

     期間はとても長くなりますが,わたしたちの強みは「花」の咲く現場をわたしたち自身が直接知っているということです。あそこを目指せばいいという,具体的な目標がありますから,そこに向けて,しかしあまりあせらず,子どもたちとともに楽しみながら,じっくり取り組もうと思います。

                                                              H.I.
     「数理言語教室 ば」

     

    theme :
    genre : 学校・教育

    春からの,立ち上げに向けて準備

     3月からの開講に向けて,いよいよ工事が始まりました。
     子どもたちが座って学ぶ,杉板の床になります。

     工事は住宅設計工房 OAKS
    にお願いしました。学研都市精華町にあるこだわりの設計事務所です。

     わたしたちのこの「ば」と相通じるスタイルで,まっすぐな仕事をされている人たちです。
    このような「信頼できる個人」が,お互いにつながりをもつこと。これはいまの時代にとても重要なテーマであり,わたしたちのこの「ば」においても,大切にしたいことのひとつです。

     それにしても,「学校」というのは,なぜあんなにも息苦しい空間なんでしょう。

     子ども達はもちろん,きっと親御さんたちも,そして先生たちもそれは感じているはずです。

     教え手と学び手のあの位置関係。等間隔に整列した机から一斉に同じ黒板方向を見るというのはそれだけで,お互いの関係を決定してしまいます。あれは教えるためではなく,まず管理するための発想からきた対置の仕方です。大人数を管理する側にとって効率がいいからでしょう。でも管理する先生たちもまた,管理しながら同時に自分自身も管理されてしまっている。

     人と人がともに同じ場所にいるときに,お互いがどう向き合うかというのはとても大事な要素ではないでしょうか。高尚な教育理論より先に,わたしたちはそこから根本的に変えていこうと思いました。

     お互いが無垢板の大きな机を囲んで座る,それだけで教え手と学び手の関係は大きく変わるはずです。

     熱心な勉強の合間に,時には床に寝転んで大きくのびをする・・・。
     時には,床でほおづえをついて,好きな本を一心に読みふける・・。そんな光景もあることでしょう。

     何も管理空間に押し込めなくとも,人は学べます。おそらく将来,大きな成長をみせる子どもは
    きっと,こういう自由な「場=ば」からこそ多く生まれるとわたしは思います。

     とはいえ,わたし自身も,座るという姿勢がすっかり減ってしまった現代に生きる普通の一人ですから,最初は足がしびれてしまうことが多々あることでしょう。

     さて子供たちとどちらが先に座ることに慣れていくだろう。きっと負けるでしょうね。彼らの順応性は素晴らしいから。

      こんなあたりから,あれこれと,わたしたちのこの「ば」をご紹介していきます。

    H.I

    「数理言語教室 ば」

    theme :
    genre : 学校・教育

    カテゴリ

    最新記事

    プロフィール

    数理言語教室 ば

    Author:数理言語教室 ば
     「小学から高校までの12年教育」
    【小1から始めて、集中力、継続力、自発性ある子に】

    ****************

    ■子どもたちは樹の香りのする寺子屋風の教室で、無垢の木の机を囲み、床に座ってのびのびと学習します。

    ■大学受験予備校講師や中学受験指導経験豊富なプロ講師が難関大学突破水準を目指し、12年間をかけて、子ども自身に読ませ、書かせ、考えさせることを徹底するという本来そうあるべき方法で丁寧に指導し結果的に高水準の学力をつけていくことを目指します。

    ■「自分からなかなか始められず、始めても続かない」「親や教師が常に横についていないと、まともに前も向いていられない」といういまどきの手のかかる子ではなく、長期間をかけ、集中力、継続力をつけ、自発的に学習できる子に育てていきます。

    ■設置講座:新小1、2、5、6、中1、3高2。小6年英語。

    ■ベテランプロ講師による医学部東大京大など難関大学、超難関中学受験個人指導、少数限定募集。

    ****************

     高の原駅近くに寺子屋形式の教室を開きます。
     子どもたちが杉の床に座り無垢の一枚板に向かって,たのしみながら,のびのびと学ぶ教室です。

     大学,中学受験のベテランプロ講師が,進学中学高校によらず,東大京大国立医学部など難関大学を目標に,小学1年生から高校3年までの12年間を一貫指導します。

     小手先の受験テクニックの暗記ではなく,長期的視点で「読む」「書く」「聞く」「考える」の基本から丁寧に習得することで,余裕をもって受験も突破するという本来そうあるべき形で学習を進めていきます。

    ※詳しくはお問い合わせください。


    ****************
    石橋英樹 〔「数理」担当〕
    :専門 受験数学,物理学

    大学時代から20年以上を京都で過ごしてきました。

    大学での専攻は天文学。
    科学全般,思想,文学,文化人類学,社会学、映画論など,多くの分野に関心があります。

    超難関大学受験指導経験が20年以上あり、特に京大や国公立私立医学部には多数の生徒を送り込んできました。

    大人数相手の講義から個別指導まで各形式での指導経験豊富。
    大学受験生はもちろん,大学生,社会人,外国人留学生まで様々な指導経験があります。

    京大トップの学生から,全くの0の学力の学生まで,あらゆるレベルの生徒への指導経験多数。

    妻および小学制の娘、息子と暮らしています。

    月別アーカイブ

    リンク

    最新コメント

    日本文学100選

    Twitter on FC2

    RSSリンクの表示

    Twitter on FC2

    淡々と百人一首

      メールフォーム

      名前:
      メール:
      件名:
      本文:

      QRコード

      QR

      フリーエリア

      上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。