続けられる子と,どうしても続かない子
このブログもすこし空いてしまいました。
子ども達は相変わらず明るく,この教室に通ってきてくれています。おまけに嬉しいことですが,早くも成長を見せる子が出始めてきました。
今日も算数のテストで,3回連続で満点を取った3年生がいました。
3年生の総復習テストです。それほど,簡単な問題ではないので,満点だけでもたいしたものです。しかし,むしろそのことよりも,時間ぎりぎりまで何度も何度も自分の答案を慎重に見直しをした上で,ケアレスミスなしに「実力通り」に満点を連続させたその姿が大きな成長でした。
3月のころには,見直しをするように指示しても,それがどんなことを意味するのかが理解できず,ただ目でさっと読み流して,「見直した」と宣言しては,ケアレスミスを連発していました。
それがこの変わりようです。
彼ら彼女たちの集中力も実に長時間もちます。小学3年生が,90分の時間を平気でこなしていくようになりました。しかもわたしは板書およびそれを筆写させることを極力しないように心がけています(この意味はそのうちに詳述します。)から,この90分は実質的な作業時間,自分の手と頭を使う時間です。
これは高校生でもかなりきついはずです。
しかもそれを2コマ連続でこなす子もいるのです。
この教室を3月に始めてから9ヶ月ほどが過ぎました。わたしたちはともかく妙な促成はせず,基本的な土台つくりをすることに専念してきました。
我々はそれなりに経験も長いベテランにあたる年代ですから,目先の成績を多少上げる程度のことについてなら,そうそう他に負けないノウハウも持ってはいるつもりです。
しかしこの教室では,ともかく実質的な力をつけることを第一にしようと意識して構えてきました。
実質的な力とは何か。
まず長時間を集中して座っていられること。
しかもその時間の大半を,自分自身で読み,書き,自分自身の頭で考える作業にあてることに耐えられようになること。
それがこの教室の目標とする子どもたちの姿のひとつです。
わたしはこの姿を抽象的に思い描いているのではなく,難関大学水準の学習をしている過去や現在の学生たちの具体的な姿を常に思い浮かべています。
早朝から並び,開門と同時に自習室の最前列の席に座ったまま,ほとんど席を離れることもなく夕刻まで学習を続けていた姿。
朝の4時過ぎまでひたすら勉強を続けていて,どうしてもわからない問題について同じ学部を目指す友人に質問を送る。するとその友人は即座に返信をしてくる。ああ彼はこの時間でもまだ続けているんだと,自分を更に奮い立たせてあと一時間やり続ける姿。
今年もまた,年頃の女の子であるにも関わらず,目の下に大きな隈をつくって,昨夜も予習復習をしていたら2時を過ぎてしまい,いつのまにか机に突っ伏して寝てしまっていました。と苦笑しながら報告をしてくれる高校生がいます。
もちろん,これらは極端な例ではあります。
しかし基本的には,彼ら彼女たちは,よく頑張り続けます。頭が「良い」とか「悪い」とかという前に,ともかく「努力」を続けられるのです。
一方でまったく逆の姿も数多い。
たとえば,カバンだけは自習室に置いて,自動販売機の前でひたすら同種の「友人」たちとずっとだべりつづけた後に,結局一問もまともに解かずに帰っていく姿。
こんどこそは心を入れ替えて勉強を続けると宣言し,あれこれあれこれ「志望」校への思いや,勉強計画をひたすら語り続けた後,1週間後にまた欠席が始まる姿。
彼らもそうしたくてしているのではありません。そういう自分の姿に嫌悪感をおぼえている者も実に多かった。
しかしどうしても続かないのです。わたしが見たところでは,やりたいんだが,「身体がいうことをきかない」という感じでした。
これは普通考えられているような,やる気のあるなしの問題ではないと,わたしは思います。
したがって,やる気のあるなしの問題と考えて導き出された「解決法」では解決しないと考えています。
続けられる者とどうしても続かない者。
わたしはこの対照的な姿を是非小学生の親たちに「参観」してもらうべきだとずっと思っていました。そうすれば,子ども時代に何が優先的に身に付けられるべき力であるかが,痛感できるだろうと。
その上で,さてどうすれば子どもたちに,続けられる力,が具体的に身に付くのでしょうか。
わたしたちは,ちょうど昨年のいまごろの時期に,そのことを話し合っていました。
それについて,続きはまた次回以降に。
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H.I.